本のソムリエ〜「もう一度楽しみたい!」となる書評と映画評〜

「あなたの人生を変える本が、きっとある」というコンセプトのもと、本や映画の紹介をしています。「こんな見方があったんだ!」と、作品の魅力を引き出す評論を書いています!

「俺はガンダムで行く」には戦士としての覚悟とオタクとしての気概が凝縮されている『レディ・プレイヤー1』感想

※本記事は『レディ・プレイヤー1』に関する軽度なネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。

 

「俺はガンダムで行く」に日本中が湧いた

「声に出して読みたい台詞大賞」があるとしたら、2018年度の大賞はきっとこれ。

「俺はガンダムで行く」

https://twitter.com/8pieL_4/status/991687863258435590

「俺はガンダムで行く」の元ネタとは?

背景を知らない人のために説明すると、「俺はガンダムで行く」の元ネタは、現在公開中の映画レディ・プレイヤー1の劇中台詞です。
"OASIS"というVR(仮想現実)が流行した近未来、人々にとってOASISでの生活は現実と同様かそれ以上に大切なものとなっていました。
しかし、ある大企業が営利のためにOASISを牛耳ろうとしたため、主人公は戦いを挑むことになります。
そうして迎えた最終戦争で、敵の親玉が乗った機体はなんとメカゴジラ
他のプレイヤー達の何十倍ものスケールを持った巨大メカゴジラは、戦場を蹂躙していきます。
主人公もそれには太刀打ちできず、万事休す、という場面で先頭に参加したのが、主人公の仲間であり日本人のダイトウでした。
「ダイトウ、速く戦闘に参加しろ!」と仲間に急かされるも、それに応じず精神集中をしていたダイトウ。
それが、仲間の絶体絶命の場面で、ついに戦闘へ合流!
好きなキャラクターに変身できるアイテムを使い、ガンダムへと変身したダイトウは、仲間の窮地を救い、果敢にもメカゴジラへと戦いを挑みに行く......。
この出陣シーンでダイトウの放った台詞こそが、「俺はガンダムで行く」なのでした。


映画『レディ・プレイヤー1』、ガンダムへの変身シーン!

 

realsound.jp

「ダイトウ、行きまーす!」であるべきだった?

最高に燃える展開でのこの台詞は、観た人の多くを虜にしました。

しかし、この台詞が話題になったのは、ただそれだけが理由ではありません。

人々の関心を集めたある議論が存在するのです。

それは、「ダイトウ、行きまーす!」では駄目だったのか、という議論です。

「○○、行きまーす!」とは、言わずもがな、機動戦士ガンダムの主人公、アムロが出撃するときの定番セリフです。
スピルバーグは『行きまーす!』と言わせるべきだった」とある映画評論家がコメントをしたという噂がTwitter上で流れため、本編の台詞の是非について議論が盛り上がることになったのです。


レディ・プレイヤー1』では劇中のいたるところにサブカルのオマージュを盛り込んでいます。
だからこそ、ガンダム本編の名台詞を使ってもよかったのではないか、という意見も理解できます。
「俺はガンダムで行く」と「ダイトウ、行きまーす!」。
どちらの台詞を選ぶかというのは、何を表現したいかの違いであるため、「こちらであるべき」と論ずるものではありません。
ただ、「俺はガンダムで行く」という台詞が選ばれたことで、表現されたものがあります。
それは、このシーンにおけるダイトウの、そしてギークが持つ気概です。

オタクのアイデンティティは、"選ぶ"ことに現れる

 

レディ・プレイヤー1』に出てくる主人公チームは、オタク(ギーク)の集まりでもあります。
普段の会話がサブカルからの引用まみれであることは当然ながら、デッド・プールのコスプレで街を歩いたり、工場でアイアン・ジャイアントの製造までしていたり......。彼らは特定の趣味に対して途方も無い情熱を注いでいます。

オタクとは、人並み外れた関心を向ける何かを持っている人種です。
彼らの愛情は凄まじく、常人には理解できないということも多々あります。

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「アオいいよね」「いい…」(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』166巻 p.96)



日本でも、極端なアニメオタクやゲームオタクなどが(悔しいことに)嘲笑の対象となることが多々あります。
「どうしてそんなことに熱狂できるの?暇なの?」と言われることさえあります。

grapee.jp

たしかに、他人からは理解できない趣味に没頭していると、しばしば冷たい視線を浴びることになります。

しかし、それにも関わらず趣味を捨てられない人は、オタクであることをやめられなかったとともに、それを生き様として選んだ人でもあるのです。
他人が何を言おうと、自分はこれを愛している。
そこまでの強烈な愛情を何かに向けたとき、愛情の対象は自分から切り離された存在ではなく、自分のアイデンティティを構成する要素となります

つまり、「何かを愛し、選ぶ」という行為は、それ自体が曖昧模糊な"自分自身"を象徴するものとなるのです。

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「なぜならそれは俺そのものだから!」(『げんしけん』5巻p.46)

"I choose the form of Gundam"に込められたダイトウの気概

 

さて、「俺はガンダムで行く」のシーンに戻ります。

 


映画『レディ・プレイヤー1』、ガンダムへの変身シーン!

この短い一言にはダイトウの強い想いが現れています
それは、この台詞の英訳からも明らかです。

「俺はガンダムで行く」は、英語字幕では"I choose the form of Gundam"となっています。

ここで注目したいのは、"choose"という動詞です。
ただ単に、「ガンダムというキャラクターで戦場へ赴く」ということを伝えたいだけなら、"go by the form of Gundam"でもよかったはずです。
むしろ、"何で行くか"を伝えたいだけなら、手段を表す前置詞"by"を用いる方が適切とさえ思えます。

しかし、実際にこのシーンの英訳で使われたのは、"choose"でした。
ここには、「俺はこのガンダムという機体を、世界を救う戦いを共にする相棒として選んだんだ」というダイトウの気概が現れています。
劇中では直接描かれていませんが、その気概の源泉にあるのは、強烈な"好き"という感情でしょう。

「どのキャラクターが一番強いか」
「どのキャラクターなら巨大なメカゴジラを打ち倒せそうか」

といった合理的な判断ではなく、自分自身の中にある強い想いに突き動かされ、選んだのがガンダムだったのです。

「一番強くなくたってかまわない」という想い

レディ・プレイヤー1』の原作小説、『ゲームウォーズ』では、主人公のウェイドがその熱い情熱からあるロボットを選択しています。
以下は、ウェイドがゲームクリアの報酬として、鉄人28号からマクロスまで、百種類以上のロボットから欲しいものを選ぶシーンです。

本物の、ちゃんと動くロボットをもらえるのかもしれない。そう考えて、選択に慎重になった。一番強くて、一番装備のいいロボットを選びたい。しかし、レオパルドンを見つけた瞬間、ジョイスティックを動かす手がぴたりと止まった。コミックの『スパイダーマン』を原案として一九七〇年代に日本で製作された特撮テレビドラマ『スパイダーマン』に登場する巨大ロボットだ。リサーチの過程で『スパイダーマン』を知って以来、とりこになってしまった。レオパルドンを見つけた瞬間、どれが一番強そうかなんてどうでもよくなった。絶対にレオパルドンがいい。一番強くなくたってかまわない。(『ゲームウォーズ(下)』p.112)

なんと、数ある超有名ロポットの中から、ウェイドが選んだのは東映スパイダーマンに登場した"レオパルドン"というマイナー ロポットだったのです(その筋には有名だけれど)。

このレオパルドンを選んだ時の、
「一番強くなくたってかまわない」
というたった一言に、気概が、想いの強さが現れているのです。
性能を比べて選んでしまうと、その愛情は代替可能なものとなってしまいます。
対象を比較可能な要素へと分解し、他と比べることで価値を見出す営みは、言うならば相対的な愛情でしょう。

しかし、"好き"がアイデンティティに直結している彼らの愛情は、他と替えられない絶対的なものです。
強かろうが弱かろうが、そんなことはどうでもいいのです。

 

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つよいポケモン よわいポケモン そんなの ひとの かって

ダイトウがガンダムを選んだのも、決してガンダムが一番強いと思ったからではないでしょう。
「絶対にガンダムがいい」という想いがあったからこそ、「俺はガンダムで行く」となったのです。

 

好きだから、選ぶ

強敵に立ち向かう戦士としての覚悟と、自分の愛するガンダムを選ぶんだというオタクとしての気概

これらの想いが見事に凝縮されたのが、「俺はガンダムで行く」だったのです。

 

 

 

 

 

こちら葛飾区亀有公園前派出所 第166巻 ジャンプ40年史の旅の巻 (ジャンプコミックス)
 

 

 

げんしけん(5) (アフタヌーンKC)

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『スーパーサイズ・ミー』感想。一ヶ月間マックを食べ続けたら、人の身体はどうなる?

 

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 肥満症に悩む女性ふたりがファーストフード会社を訴えたニュースをきっかけに、1日3食1ヵ月間ファーストフードを食べ続けたら人間の体はどうなるかを検証した異色の食生活ドキュメンタリーが低価格で登場。監督自ら身体を張って過酷な人体実験に挑む。(Amazonより)

一ヶ月間マックしか食べなかったら人はどうなるのか

 この映画の概要は一言で表せる。一ヶ月間マックしか食べなかったら人はどうなるか、監督自らが実験台となったドキュメンタリーである。

 監督のモーガンはこの映画を撮るにあたり、いくつかルールを定めた。

 一つ、毎日三食マックを食べること。

 一つ、マック以外の食品は口にしないこと。

 一つ、サイズを聞かれたら"スーパーサイズ"にすること。

 など、ファーストフードが人体にもたらす影響を正確に調査するためにモーガンは厳しくルールを定めた。

 なお、スーパーサイズとは、S、M、Lのさらに上のサイズのことで、日本で言うところの"特大"にあたる。Sサイズのフライドポテトが200kcalなのに比べて、スーパーサイズは600kcal三倍のカロリーになっている。

 

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            (参考:一番右がスーパーサイズ)

 モーガンはこんな生活を一ヶ月間続けた。はじめは身体の拒否反応からか吐いてしまうこともあったが、「禁煙と同じで三日過ぎれば慣れる」と言ってからは特段苦しむこともなくマック生活を楽しんでいた。

 途中経過を観測するためにモーガンは定期的に医師の診察を受けていたが、途中でドクターストップが入る。こんな生活を過ごしていたら大変なことになると警告されたのだ。

 だが、モーガンはくじけることなくやり遂げた。その結果どうなったか。

 体重は12kg増え、体脂肪率は10%増加。その他内臓機能のリスクが大幅に上昇した。

 正直なところ、この結果を見ても驚くことはなかった。むしろ、最初の検査の時点で7kg増えていたことからしたら、「そんなものか」とさえ思うほどであった。なにしろ一ヶ月間マックしか食べない生活が身体に良くないことはわかりきっていただからだ。

 だが、この映画は人体実験の一部始終をただ流しているわけではない。現代のアメリカの大手ファーストフード会社への批判がメッセージとして盛り込まれている。

一年間で741個のビッグマックを食べる男

 マクドナルドはおよそ10億4000万ドルもの広告費を投入している(映画製作当時)。大手お菓子メーカーのハーシーの広告費が2億ドル、ガン予防のために野菜を食べようキャンペーンが200万ドルといったことと比べても、その額が膨大であることがわかる。

 こうした宣伝の効果か、アメリカ人はファーストフードを本当によく食べる。アメリカの調査機関ギャラップ社が2013年に行った調査によると、ファーストフードを週一回利用している人が約5割りいることが分かっている。

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(週一以上の利用は5割近く…米国のファストフード好き具合をグラフ化してみる - ガベージニュースより引用)

 ファーストフードを利用する人の内、週に3~4回利用する人のことをスーパー・ヘビー・ユーザーと言う。本映画では、このスーパー・ヘビー・ユーザーの割合は、なんと全利用者の内22%にまで上っていると説明している。

 作中に出てくる"ビッグマック・マニア"ゴースクは、本映画の中で最も強烈なマックユーザーだ。彼は初めてビッグマックを食べた日にその美味しさに感動し、その日だけで9個ものビッグマックをたいらげた。その後は一日二つビッグマックを食べるようになり、今では一年間で741個ものビッグマックを食べる生活をしているという。

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          (参考:"ビッグマック・マニア"ゴースク) 

 このようにファーストフードが根強い人気を誇るアメリカだが、それが最も深刻な形で現れているのが子どもの食生活である。

学校給食に入り込むファーストフード

 日本の公立学校では給食があり、栄養バランスの取れた食事が提供されている。また、食堂がある学校の場合でも、その場で調理された食事が出されることが多い。

 しかし、アメリカの公立学校にはファーストフードやスナック菓子メーカーが入り込んでいる。給食としてスナック・ケーキやコーラ、ゲータレードが提供されるのである。また、農務省から学校に提供される食事もそのほとんどが冷凍食品や缶詰で、一食で1000kcalを超えることすらあると言う。

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                                     (参考:アメリカの公立学校の給食)

 大手ファーストフード・チェーンにとって、学校給食は巨大利権なのである。堤美果は、2008年に『ルポ 貧困大国アメリカ』にて学校給食にファーストフード・チェーンが入り込んでいる現状を指摘している。

 

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

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 学校給食という巨大マーケットを狙うファーストフード・チェーンも少なくない。政府の援助予算削減にともない、全額無料では提供しきれずにマクドナルドやピザハットなどの大手ファーストフード企業と契約する企業も増えている。調査結果によると全学校区の約29%が大手ファーストフード・チェーンから申し出を受けており、その率は生徒数が5000人を超える学校区では約6割という高率になっている。(『ルポ 貧困大国アメリカ貧困大国アメリカ』p.22)

 政府の予算削減を好機として、ファーストフード・チェーンが学校給食の現場へと入ってきているのである。ジョージ・ブッシュ政権は2007年度に6億5600万ドルの無料食料援助予算削減を実施し、その結果約4万人の児童が無料給食プログラムから外された。こうした予算の削減が、ファーストフードを食べる子どもの数を増やしているのである。

 また、貧困とファーストフードは密接に結びついている。裕福な家庭では栄養価の考えられたお弁当を子どもに持たせることができるが、貧しい家庭では安価なファーストフードに頼らざるをえないことがある。また、給食だけでなく、普段の生活においても低価格・高カロリーなファーストフードは重宝される。

 このように貧困家庭がファーストフードをよく食べることは、はたして自己責任なのだろうか?

 

 この映画が撮られるきっかけとなったある裁判がある。それは、2002年にアメリカで男女八人が「マクドナルドは青少年に肥満という流行病をもたらした」としてマクドナルドを相手に訴訟を起こしたというものである。

 この裁判で、マクドナルド社側の弁護士たちは、「ファーストフードを食べ過ぎればどんな悪影響があるのかは、常識のある人ならだれでも知っている」とし、肥満は「個人の責任」だと反駁した(参考:donga.com[Japanese donga])。

  また、最近では厚労省が「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がない」「食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」とコメントをして話題となった。これもまた、食生活の乱れ=自己責任論を思わせるものである(参考:厚労省の「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がない」「健康への関心を高めて」発言が「貧困層あおってるのか」と話題に - ねとらぼ)。

 「食生活の乱れは自己責任だ!」と叫ぶ人には以下の事実を見て欲しい。アメリカでは「貧困」と「肥満」が同義語になるような現状があるのだ。

世界的な経済学者のポール・ゼイン・ピルツァーは、著書『健康ビジネスで成功を手にする方法』の中で、120兆円規模の食品産業が貧困層をターゲットにいかに巨額の利益を得ているかを指摘している。加工食品のマーケティングは、肥満と栄養失調が深刻な問題である貧困国民の嗜好を研究し、彼らが好む有名人をCMに使うなどしてピンポイントで狙い撃ちするという。貧しい国民ほど安価で手にいるジャンク・フードや加工食品に依存してゆくからだ。経済的弱者がそれらの産業を潤わせるアメリカで、「貧困」と「肥満」は同義語になりつつある。(『ルポ 貧困大国アメリカ』pp.30-31) 

 

 食生活の乱れを自己責任と言ってしまうのは簡単だ。だが、本当にそう言い切れるのだろうか?

 安価で低カロリーなジャンクフードに頼るしかない人々や、貧困層を狙い撃ちにするビジネスが存在する。貧困層の中には、健康への無知や意志の弱さなどではなく、環境によってジャンクフードへと走らされている者も多いのだ。

 

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『フランケンシュタイン』感想。「かわいいは正義」なら「ぶさいくは悪」なのか?

 

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 

 天才科学者フランケンシュタインは生命の秘密を探り当て、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし誕生した生物は、その醜悪な姿のためフランケンシュタインに見捨てられる。やがて知性と感情を獲得した「怪物」は、人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外されて…。若き女性作家が書いた最も哀切な“怪奇小説”。(Amazonより)

"怪奇小説"?いいや、"喪男小説"

 よく誤解されていることだが、フランケンシュタインとは怪物の名前ではない。フランケンシュタインは怪物を造った博士の名前であり、怪物に名前はない。そのため作中では"怪物"や"悪魔"などと呼ばれている。

 フランケンシュタイン博士は、生命の神秘への好奇心が高じて人造人間を造り出すことに成功した。しかし、博士は醜さのあまり怪物を見捨て、故郷のスイスへ帰ってしまう。すると、怪物は博士の周囲の人間を襲いだすようになり……というストーリーである。

 『フランケンシュタイン』は19世紀初頭のゴシック小説である。ゴシック小説とは18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した幻想的な小説のことであり、本作品はそのカテゴリに入る。また、その性質からホラーやSFの要素を含むことが多い。

 この作品は"世界初のSF小説"と評されることもあれば、Amazonの紹介文のように"怪奇小説"とされることもある。また、小説の大部分は博士の視点からフランケンシュタインの恐怖を描いていることから、"ホラー小説"と読むこともできる。

 ただ、「それではこの小説は"何小説"なのか?」と聞かれたらこう答えたい。

 "喪男小説"だ、と。

孤独を運命づけられた"喪男"

 "喪男"とは、"モテない男"を意味するネットスラングである。

 この喪男という言葉を思想や文学の考察に用いた先駆者として本田通がいる。
 本田はその主著『電波男』にて、「現代日本は恋愛資本主義に支配されている」と喝破し、喪男こそが現代のカーストの最下層であるとしている。 

電波男

電波男

 

  本田通流に言うなら、フランケンシュタインの怪物は紛れもない"喪男"であり、『フランケンシュタイン』は究極の"喪男小説"である

 怪物の喪男具合は並大抵ではない。なぜなら、怪物は誰にも愛されることがなかったからだ。誰もが

 フランケンシュタイン博士により置き去りにされた怪物は、ある山小屋を見つけ、そこに住むことになる。その山小屋の近くにはもう一つ小屋があり、そこではある家族が暮らしていた。怪物はその家族の話を聞くことで、その事情や関係性を理解し、次第に情を抱くようになる。

 そして意を決して話しかけにいったところ、目の不自由な老人との会話に成功した。しかし、老人の家族が怪物を見るや否や、問答無用で襲い掛かり、怪物を追い払ってしまう。挙句の果てに、「こんなところに住んでいられない」と小屋を引き払うという始末である。

 怪物はその醜さ故に愛される資格を持たなかった。彼に最も近い存在であるはずの、生みの親であるフランケンシュタインですらその醜さに慄き恐怖していた。

 「ああ!あの恐ろしい顔に耐えられる人などいないでしょう。蘇ったミイラでも、あれほどひどい顔はしていないはずです。完成前もその顔は見ていて、かなり醜いとは思っていましたが、筋肉と関節が動くようになってみると、その姿は、もうダンテですら考えもつかないようなものになっていたのです」(p.108)

 他人はおろか、生みの親すら愛してくれない。彼の外見が醜いというそれだけのことで。

 絶望した怪物は博士に「せめてともに生きる伴侶を造ってくれ」と懇願するが、人造人間をもう一体造ることを恐怖した博士はそれを拒否する。この瞬間、彼の孤独は運命づけられた。

 

「ああ、フランケンシュタイン、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。だが、このままではまるで何も悪いことをしていないのに、喜びを奪われた堕天使ではないか。あちこちに幸福が見えるのに、おれだけがそこからのけ者にされている。おれだって優しく善良だったのに、惨めな境遇のために悪魔となったのだ。どうかおれを幸せにしてくれ。そうすればもう一度善良になろう」

立ち去れ! もう聞きたくない。おまえと仲良くなどできるものか。おまえは敵だ。失せろ! さもなければ、戦ってどちらかが倒れるまでだ」(pp.184-185)

  怪物は愛情や知性に欠けて生まれてきたわけではなかった。しかし、世界が彼を否定した。醜さがもたらした惨めな境遇が彼の心を蝕み、復讐心に燃えた悪魔へと変貌させた。

 世界に否定された者の行く先は一つしかない。世界への憎悪である。

「命を受けた日よ、呪いあれ」

  怪物は拒絶を運命づけられた姿で生まれてきた。また、仲間となる怪物もいない。人間社会に交わることも叶わず、共に生きる者もいない完全な孤独。そんな彼にとって生を受けたことは苦痛以外のなにものでもなかった。

「命を受けた日よ、呪いあれ」おれは苦痛にあえいで叫んだ。

「呪われし創造主よ! おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ? 神は人間を哀れみ、自分の美しい姿に似せて人間を創造した。だがこの身はおまえの汚い似姿にすぎない。おまえに似ているからこそおぞましい。サタンにさえ同胞の悪魔がいて、ときに崇め力づけてくれるのに、おれは孤独で、毛嫌いされるばかりなのだ」(pp.233-234)

  どうして彼は醜い姿で生まれなければならなかったのか。いや、そもそもなぜ彼は生まれなければならなかったのか。

 そこに理由などない。生きる理由などは与えられず、ただ生み落とされる。怪物は神によって造られたのではない。神の領域を侵したフランケンシュタインによって造られたのだった。この世界に神などいない。故に、実存に先立つ本質などもないのだ。

 怪物の最大の不幸は、孤独を運命づけるその醜さである。そして、二番目の不幸は生まれてくることを拒否できなかったことであった。

 芥川龍之介の『河童』に出てくる河童は、この世に生まれてくるかどうかを選ぶことが出来た。父親は母体の中の息子に生まれてきたいかを問うのだ。

父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬でうがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」『河童』

 息子は「生れたくはありません」と返事をした。すると、この直後に産婆は母親の身体に注射器を刺し込み、息子を殺してしまう。 

 この選択の是非はわからない。ただ、彼には生まれてくるかどうかを選ぶことができた。しかし、怪物には選べなかった。この差は大きい

 奇しくも『フランケンシュタイン』の出版と同時代である19世紀前半に活躍したキルケゴールもまた実存的な問題を提起し、宗教による救済を説いた。しかし、怪物はその道も選べなかった。

 勝手に生み落とされ、人間とも神とも断絶されていた怪物彼を凶行に追いやったのは、その絶望的なまで孤独であった

(以下、物語のラストについてのネタバレあり)

かわいいは正義」なら「ぶさいくは悪」なのか?

 怪物は復讐の最終段階で、フランケンシュタインを殺害する。殺害の直後、博士の友人は怪物を見つけて問いただす。生前の博士に怪物のことを聞いていた友人は、好奇と同情から怪物のことを知ろうとした。

 ここから怪物の怒涛の嘆きが始まる。怒りと悲しみと絶望に満ちたその長口上は8ページに及んでいる。博士視点で物語が綴られ、怪物はその行動ばかりがクローズアップされていたため、読者はここで怪物の苦悩を目の当たりにすることになる。

 どんな罪もどんな悪事もどんな悪意もどんな不幸も、おれのものとは比べものにはならぬ。自分が犯した恐ろしい罪を思い返してみると、とても信じられないのだ。かつては崇高にして、現世を超越した思いで満たされ、美や壮麗なる善を夢見た自分。それと今のおれは同じものなのか。いや、そうなのだ。堕ちた天使は悪辣な悪魔になるのだからな。だがそんな神と人間の敵にも友はいて、寂しさを慰めてくれるだろう。しかし、おれは一人なのだ。(p.396)

 怪物は美徳も罪悪感もおよそ人間らしい感情をすべて持ち合わせていた。だが、孤独は彼を悪魔に変えた。いや、悪魔にさえ仲間はいる。彼にはその仲間すらいなかった

 ここで言う孤独とは、"一人でいること"を指すのではない。"周囲からの拒絶によって一人でいることを強いられる"という宿命のことを意味する。

 ここでタイトルの問いに戻ろう。

かわいいは正義」という言葉がある。では、「ぶさいくは悪」なのか?

 そうは思わない。ある人の好かれやすさはその容姿に依存するところが大きいのは事実であるが、容姿自体がその人の内面を決定づけることはない。

 だが、外見がもたらす孤独は人を破滅的行動へと導くことがある。誰もがフランケンシュタインの怪物のようになるとは言わない。外見的な美しさに差はあれど、親にすら愛されず、人と喋ることも叶わないという人はまずいないからだ。しかし、その大部分が先天的な要素である"見た目の良さ"が、その人が愛多き人生になるかを大きく左右することは否定できないだろう。残酷でぞっとする現実ではあるが。

 外見が人を疎外に追いやる。この人間社会の残酷な現実が、何よりも恐ろしい

 (※光文社古典新訳文庫電子版は2016/1/7まで半額セール中です)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

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フランケンシュタイン (新潮文庫)

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【オススメ】光文社古典新訳文庫電子版半額セールという好機に、絶対に"面白くって""読みやすい"作品を友人へ薦めるつもりで三つだけ紹介してみた

光文社古典新訳文庫が1月7日まで全品半額

 本好きにはたまらない朗報が入ってきた。なんと光文社古典新訳文庫が2016年1月7日までの期間限定で電子書籍全品半額セールを行っているらしい。光文社古典新訳文庫のファンだっただけに、このセールはとても嬉しい。"いま、息をしている言葉で、もういちど古典を"というフレーズも大好きだ。

 このことをTwitterに書いたところ、複数の友人から質問があった。

「せっかくだから何か読みたいのだけど、オススメある?」

 この質問は嬉しいけれど、難しい。

絞りに絞り、考えに考えた本気の三作品

 本を人に薦めるのには勇気がいる。薦めた結果、「面白かったよ!」と言ってもらえたら最高にうれしい。だが、相手のことを考えずにヘタなものをオススメしてしまった日には目も当てられない。友人の貴重な時間を奪った挙句、「次からあいつに聞くのはよそう」となってしまうからだ。本は、薦める方も読む方もリスクを背負う。

 特に、古典を薦めるのは難しい。馴染みがなくって読みづらい上に、"古典を薦めることのセンスの良さ"のような自意識からの推薦と思われてしまっては手に取ってすらもらえないだろう。

 この"読み手のことを本当に考えた古典紹介"というのは案外多くないように思える。よく、「大学教授が新入生に進める~冊」「ビジネスマンに進める教養書~冊」みたいな本があるが、正直どれもしっくりこない。権威のある本を並べただけであったり、"メジャー"なところをただ並べているだけであったりと、本当に読み手のことを考えているのか疑わしいラインナップになっていることが多いのだ。はたして、新入生やビジネスマンが『資本論』の原著を読破すると本気で思っているのだろうか。

 もちろん、いわゆる古典の名著と言われるものに難解で長大なものが多いことは承知しているし、だから読むべきではないとは思わない。だが、本を薦める身としては読んでもらわなければその推薦は失敗なのだ。また、読んだ結果「つまらないし、意味わからなかった」と言われても失敗だ。相手の感性や理解力の低さが問題なのではない。独りよがりで自己満的な"オススメ"をしてしまった自分が悪いだけだ。

 そこで、これから紹介する三作品は、本当に面白くて読みやすいものだけに絞った。見栄や自己満足を一切入れていない。また、本当に読んでもらいたいと思っているため紹介は三作品だけにしている。

 "本は好きだけど最近あまり読めてない、20~30代の友人"に読んでもらうとしたら何を薦めるかという視点で選んだ。以下に、本気で選んだ三冊を紹介する。

1.『すばらしい新世界』―もしも"理想の世界"が実現したら?

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 四の五の言わずに読んでほしい。この本にはSFの面白さが凝縮されている。

 SFの面白さとは、仮想実験の面白さにある。空想が現実化したらどうなるか、そのシミュレーションをするのがSFなのだ。いわばドラえもんのもしもボックスである。

 具体的な例を挙げる。

●「もしも本のない世界だったら、人々の価値観はどうなっているだろう?」⇒すべての本が焼き払われる世界『華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

●「もしも人生が何回もやり直しできたら、生きる意味って何になるんだろう?」⇒43歳になる度に人生が巻き戻る『リプレイ (新潮文庫)

●「もしも手術で大天才になったら、それでも『自分は自分である』と言える?」⇒障害を持つチャーリイが手術で天才になる『アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)

 SFは哲学であると常々思う。抽象的な思弁を具体的な現実に落とし込んだ時、はたしてどんな世界が広がっているのか。SFはそんな思考実験をさせてくれる。

 さて、それではこの『すばらしい新世界』はどのような実験を行うのか。それは、「もしも功利主義的に理想の世界が実現したら、それって本当に"理想"の世界?」というものだ。

 功利主義とは、行為や制度をそれがもたらす効用によって評価する思想のことである。この思想の特徴は、"絶対的に正しい行為や制度"があるのではなく、人の得る"効用(≒快)"がその望ましさを決めるとしている点である。つまり、絶対的な"正しさ"なんて存在しない以上、"人が実際にどう感じるか"によって判断するしかないというスタンスであると言える。この思想は相対主義を前提とした社会と非常に相性が良く、そのため現代社会は功利主義がとても色濃くなっている

 さて、『すばらしい新世界』の世界では、人びとは「快」の感覚に包まれている。人はみな培養瓶から生まれ、生き方が自動的に決定される。誰も隠し事や嫉妬などない。しんどくなった時は"ソーマ"という薬で好きなだけ気持ちよくなればいい。極めつけは、そうした生き方になにも葛藤を持たないように"条件付け(教育)"されている。

 現代に根強く広まっている功利主義の考え方からすれば、この世界はまごうことなき"すばらしい新世界"である。しかし、なんだかグロテスクだ。

 この新世界に、我々と似たような世界に住んでいたジョンが訪れる。ジョンは未開の世界から来た"野蛮人"として新世界を覗き、激しく動揺する。そして、新世界の役人と議論をするのだが、徹底的に論破される新世界は論理的に完璧な世界なのだ。

 それでもジョンは食い下がる。人間ってそんなもんじゃないだろう、と。

「快適さなんて欲しくない。欲しいのは神です。詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です」

「要するにきみは」とムスタファ・モンドは言った。「不幸になる権利を要求しているわけだ」

「ああ、それでけっこう」ジョンは挑むように言った。「僕は不幸になる権利を要求しているんです」

(『すばらしい新世界』p.340)

 このシーンはSF小説史上屈指の名シーンである。 そして、これだけテンポよく、美しく訳した光文社古典新訳文庫(訳:黒原敏行)もまたすばらしい。

 この本は優れたエンターテインメント小説でありながら、現代社会の行く末について考えさせる大傑作である。良い本には世界の見方を変える力があると言うが、この本はまさにその好例。『すばらしい新世界』を読めば、"理想の世界"というものを一段深く考えられるようになる。

(より詳細なレビューはベンサム先生、これが理想ですか?『すばらしい新世界』 - 本についての備忘録にて)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 2.『ちいさな王子』―大人こそ胸を打たれる『星の王子さま』

ちいさな王子 光文社古典新訳文庫

ちいさな王子 光文社古典新訳文庫

 

  『ちいさな王子』と言うと馴染みがないかもしれないが、『星の王子さま』の新訳である。この『ちいさな王子』という言葉に込めた想いについては下の記事で訳者が熱く語っている。

www.kotensinyaku.jp

 同著は資本論の次に多く翻訳された作品だと言われ、現在も映画『リトルプリンス 星の王子さまと私』が大ヒットしているように、世界中で愛されている作品である。

 しかし、そのタイトルや可愛らしい挿絵から、子ども向けだと思われているかもしれない。もしそうなら、とてももったいない。この作品は大人にこそ刺さる。

 特に面白いのが、王子とバラとの関係である。王子は美しい一輪のバラと仲がよく、水をやったり話をしたりしていた。しかし、このバラは難しい性格をしており、わざとトゲのある言い方をしたり、意地を張って思ってもないことを言う。そうしているうちに王子はバラの言葉をいちいち疑うようになり、愛情が薄れてしまう。これなどまさに、男女関係そのものとして読める。

 そして、そのことを振り返って言う王子の言葉が胸を刺す。(なお、光文社訳の王子は新潮訳に比べて子どもっぽく、語りかける口調になっている。)

「あのころ、ぼく、なんにもわかっていなかったんだなあ! お花が何をしてくれたかで判断するべきで、何をいったかなんてどうでもよかったのに。お花はいい香りでつつんでくれたし、明るくしてくれた。ぼく、逃げ出したりしちゃいけなかったんだよ! いろいろずるいことはいってくるけど、でも根はやさしいんだとわかってあげなくちゃならなかった。お花のいうことって、ほんとうにちぐはぐなんだもの! でもぼくはまだちいさすぎて、どうやってお花を愛したらいいかわからなかったんだ」(『ちいさな王子』p.49)

 この台詞などは若すぎる男女のすれ違いを見ているようだ。きまぐれでうそつきなバラの言葉に王子は翻弄された。ただ、彼はやがて気づいた。彼女が何を言ったかよりも、一緒にいた時間を信じればよかったのだと。

 一緒にいた時間が王子にとってバラをかけがえのないものにした。その強い愛情は、他のバラたちに向かって語りかける言葉の中にはっきり現れている。

きみたちのためには死ねない。そりゃ、通りすがりの人にとっては、ぼくのバラもきみたちと区別がつかないだろうね。でも、きみたちみんなを集めたより、あのバラの方が大事なんだよ」(『小さな王子』p.112)

 「きみたちのためには死ねない」の裏返しは、「彼女のためなら死ねる」。あのバラが、あのバラだけが大事なんだ。そう言ってのける王子の姿に胸を打たれる。

 そして、さらにこの後、「人間が忘れてしまった大事なこと」についての印象的な問答が行われる。ぜひ、実際に読んでみてほしい。

ちいさな王子 光文社古典新訳文庫

ちいさな王子 光文社古典新訳文庫

 

3.『罪と罰』―世界最高の小説。

 

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

罪と罰 2 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰 2 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

罪と罰 3 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰 3 (光文社古典新訳文庫)

 

  一番薦めたくて、薦めづらい本。おそらく名前を耳にしたことがない人はいないだろうが、実際に読んだことがある人は1%にも満たないのではないだろうか。

 その原因は、「なんだかわからないけど暗くて重くて長くて難しそう」という印象のせいだと思われる。まず登場人物の名前からしてややこしい。ラスコーリニコフ、ラズミーヒン、ポルフィーリイ、スヴィドリガイロフ……。ロシア人の名前が耳慣れない日本人にとっては登場人物の名前を覚えるだけで一苦労だろう。昔の『こち亀』でも長くて難解な小説の代名詞としてよくネタにされていた。

 だが、その世界に入り込んでしまえばこれほど面白く、深い作品はない。天才は凡人を踏みにじっても良いというナポレオン主義、人を殺すという"体験"の意味、宗教による救済など、思索の切り口は無数に存在している。エンターテインメント小説として読むことも可能ながら、懐が果てしなく広い。

 早い内に白旗を挙げる。『罪と罰』の魅力を簡潔に説明することなど不可能である。

 ただ、読めば分かる。そのため、ここではその世界への入り方を紹介する。

 「絶対に読んでもらいたい」という意図でこの記事を書いている手前、そもそも読み始めてもらえなければ意味がない。そのため、邪道の誹りを受けることを覚悟である方法をおすすめする

 それは、漫画から入るというものである。

 『罪と罰]に関しては、素晴らしい漫画が存在している。それは、落合尚之による『罪と罰 A Falsified Romance』(全10巻)である。実は、同じドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ではなくこちらを紹介した理由の一つにこの漫画の存在がある。この漫画は、『罪と罰』の舞台を現代日本に置き換えるという大胆なアレンジをしながら、原作の持つ魅力を強く惹きだすことに成功している奇跡的な作品である。

罪と罰 (落合尚之) 全10巻完結セット (アクションコミックス) [マーケットプレイスセット]

罪と罰 (落合尚之) 全10巻完結セット (アクションコミックス) [マーケットプレイスセット]

 

  原作の『罪と罰』では、主人公で貧乏書生のラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺す計画を立てるところから物語は始まる。彼は「非凡人は凡人の法律や道徳を踏み越えていい」という思想の持ち主で、その思想から老婆殺しを正当化する。

 ラスコーリニコフは欲深い老婆を生きる価値がない人間として殺害に至るが、たまたまそこに居合わせたリザヴェータまで殺してしまう。彼女は老婆にこき使われているただのお人よしな人間で、殺されるべき理由はなかった。そのことがラスコーリニコフを葛藤させることになる。そして、自己を肥大化させ自分勝手な空想に浸るラスコーリニコフは、身を売りながらも魂の高潔さと献身を保つソーニャと出会ったことで自分の"罪"と対峙することになる。これが序盤の簡単なあらすじである。

 一方、落合版『罪と罰』はこれをどうアレンジしたか。ラスコーリニコフは小説家志望の大学生"ミロク"。金貸しの老婆は地元一帯の売春組織の元締めを行う女子高生、"ヒカル"。リザヴェータはヒカルの同級生で、売春組織で援助交際を強いられ酷使されている"リサ"。そしてソーニャは……(ネタバレを含むため伏せる)。と、このように驚くほど大胆にアレンジされている

 落合版『罪と罰』では、漫画という特性を活かしてとてつもない緊迫感を漂わせている。特に、ミロクがヒカルの殺害を実行しようとする場面は息をするのも忘れるほどだ。濃厚な原作を全10巻に収めながらも、原作の魅力を損なうことなく、一気に読ませる力のある作品となっている。

 何度も言うが(何度でも言うが)、落合版『罪と罰』は原作の古典が持つ魅力を十分に発揮しながら、非常に高いレベルでまとまっているエンターテイメント作品となっている。そのため、いきなり原作から入ることに抵抗がある人は、まずこの漫画から入り、そして原作を読むことを強くオススメする。

 これは映像化作品を観た人がその作品のファンになり、原作に手を出すのと同じである。ネタバレになるじゃないかと言う人もいるだろうが、その程度のことで揺るがないほどの力を原作は持っている。原作には漫画版では表現しきれないテーマや議論がさまざま存在している。そのため、漫画版と原作の違いを確認するという気持ちで読んでもいいだろう。そして、読み切る頃にはこの作品に病み付きになっているに違いない。

 『罪と罰』には江川訳(岩波)、工藤訳(新潮)、米川訳(角川。現在は希少)、そして亀山訳(光文社)とさまざまな訳がある。訳者によって特徴があり、それぞれの訳にファンがいるためどれがベストか決めることは難しいが、亀山訳の場合は現代調にしていて読みやすいという特徴がある。そのため、一度読み終わったらまた別の訳と読み比べてみるというのも面白いだろう。

 なお、『罪と罰』にハマったら岩波版の著者である江川卓による『謎解き『罪と罰』』を強くオススメする。この作品は原著であるロシア語の単語を分析し、ドストエフスキーが『罪と罰』に隠していた意図や企みを解明している。『罪と罰』ファン必読の書。

謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

 

 

 長くなったが、ここまで『すばらしい新世界』『ちいさな王子』『罪と罰』の三作品を紹介した。これらはどれも、"挫折しなくって""面白い"本だと断言できる。

古典を読むとは、一生モノの資産を持つこと

 古典を読むことは一生モノの資産を持つことと同じである。古典は年月を経ても風化しない普遍的な価値を持つ。それは、書かれた時代とは時を隔てていても、"今"の時代に対して優れた洞察を与えてくれるということである。「理想の社会とは?」「人を愛するとは?」「人を殺すことの罪とは?」。こうしたテーマに対して、一生使える補助線になるし、また有力な引用元となる。俗な言い方をするなら、そんな資産が数百円で手に入るのだから、これほど"コスパ"のよいものはない。

 それぞれの作品の解釈や読み方にはかなり私見が入っているが、このようにさまざまな切り口から読めるのも古典の魅力だろう。ぜひ実際に読んでみて、古典の魅力の一端に触れて欲しい。

 

 

 

『私のように黒い夜』感想。白人が肌を黒くしてみた。すると、世界は残酷になった。

 

私のように黒い夜

私のように黒い夜

 

 1959年アメリカ合衆国、命を脅かすほどの黒人差別が暗黙のうちに認められていた時代。闇に閉ざされた実態を明らかにするため、全身を黒く変色させ、米国南部へ潜入した白人ジャーナリストがいた。戦争による盲目、そして光を突然とり戻すという数奇を体験した白人グリフィンがそこで得た真実は?当時、世界に衝撃を与えた“南部の旅”日記に、その後の余波、著者の経歴を含むあとがき等が大幅加筆。今尚、アメリカのあり方を深く問い続ける名著、平井イサク名訳(全面改訳)により、待望の復刻。(Amazonより)

全身を黒くした白人男性が、内側から黒人差別を覗き込む

一番の衝撃は、この本がノンフィクションであることだ。薬物治療によって皮膚を黒く染めた白人男性も、黒人には白人女性を見ることすら許されないといった差別も、現実に存在していた。

 1959年のアメリカには、依然として黒人差別が存在していた。南部の州議員たちは黒人と「すばらしくうまくいっている」と言っているが、そんなのはあまりにも見え透いた嘘だった。筆者のグリフィンは、「黒人になる以外、差別の真相を知ることはできない」として、黒人になることを決意した。

 グリフィンは治療によって一ヶ月ほど黒人として生活することになった。黒人差別の実情は果たしてどのようなものなのか。想像を絶する酷さなのか。それとも州議員の言うように、存外穏やかなものなのか。

 皮膚の色が変わっても、自分は自分。周囲の人びとの目は変わらない。そんな甘い幻想は、はなから否定されていた。

 「皮膚の色に関係なく、ジョン・ハワード・グリフィンとして、僕を扱ってくれると思いますか――それとも、僕は前と同じ人間なのに、名もない黒人として扱われると思いますか?」と、私は訊いた。

 「冗談いっちゃいけませんよ」と、捜査官の一人がいった。「連中は何一つ訊かないでしょうね。あなたを見たとたんに、黒人だと思い、それさえわかれば、他のことは何一つ知りたいとも思いませんよ」(p.15)

 黒人には"黒人"というアイデンティティしか認められていない。連邦捜査局の捜査官はそうグリフィンに警告する。

 そして、実際にグリフィンが内側から見た差別の実態は、とてもおぞましいものだった。

白人女性を見ることすら許されない 

 黒い皮膚になった途端、グリフィンを取り囲む世界は一変した。白人である自分に対しては、世の多くの白人男性は紳士的で柔和な笑顔をまとっていた。しかし、"黒人"の自分に向けられるのは軽蔑と好奇の目だけであった。

 上品な顔立ちをした女性は青筋を立てて怒鳴り散らし、紳士然とした男性は"黒人は千変万化の性経験を持つセックス・マシーン"という伝説を信じて根掘り葉掘り聞いてくる。それらはグリフィンが白人であった頃にはとても考えられない光景だった。

 グリフィンがミシシッピを訪れた時、親切な黒人は彼にこう忠告した。

「とにかく、白人の女には、目を向けてもいけないんだ。下を向くか、反対の方を向くようにするんだ」(中略)

「映画館の前を通って、外に女のポスターが出てたら、それも見ちゃいけないんだ」

「そこまで酷いのか?」

 彼はそう断言した。別の男がいった。「必ず誰かが声をかけるよ――おい、ボーイ、どうしてそんな目で白人の女を見てるんだ、ってね」(p.97)

 

 黒人は、白人女性を見ることも許されない。街中には"黒人用"という表記のトイレや座席に溢れ、バスに乗ったら降ろしてもらえず、職を求める女性には身体を要求して「お前たちの子どもに白人の血を分けてやってる」と言い放つ。当時のアメリカ南部ではそんな差別が公然と行われていた。

 日常化している白人による黒人差別。もちろんそれ自体問題であるが、この人種差別という問題の深刻性は別なところにも潜んでいる。それは、黒人自身による自己疎外である。

「黒人にとって運命とはただ一つしかない」『黒い皮膚・白い仮面』

 グリフィンは"実験"のかなり早い段階から黒人の自己疎外という問題に気づいていた。彼は"仲間"の黒人たちと語り合う中で、黒人には二重の問題があると彼らが認めていることを知った。

第一の問題は、黒人に対する白人の差別。第二の、より嘆かわしいといってもいいような問題は、黒人の黒人自身に対する差別。苦しみを思い起こさせる黒いということに対する、黒人自身の軽蔑。彼自身がそのためにさんざん苦しんできた<黒>の一部であるが故に、仲間の黒人の足を引っ張ってやろうという気持ち。(p.71)

 差別は内面化する。"白人優位、黒人劣位"という支配的な植民地文化に慣れすぎたために、自らの黒い肌に自分から軽蔑の目を向けるようになってしまったのだ。

 こうした黒人の自己疎外について、哲学者にして精神科医であったフランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』で精緻な分析を行っている。

 

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

 

 

 その著書の中で、ファノンは「それがどんなに辛いことであれ、次の点を確認せざるをえない。」と前置きし、次のように述べている。

黒人にとって運命はただ一つしかない、ということ。その運命とは白人である。(『黒い皮膚・白い仮面』p.33)

 黒人の運命は白人しかない。そのファノンの言葉の意味を説明する。

 ヨーロッパの植民地文化は、"黒人である"ことを不純であることと同一視する傾向があった。植民地の規則に服従させられた人々はこの認識を受け入れ、自分たちの肌の色を劣等のしるしとみなすようになった。植民地化された人々は、この"不純"という立場から脱することを願う。そのための唯一の手段は"黒人であること"を拒否することであり、すなわち"白人になること"なのだ。

 ファノンの主張は続く。この白人になるという"白い実存"は実現しない。肌が黒いという事実は変えられないからだ。さらに、"白い実存"を実現したいという願いは、白人の優位を認めるものであり、人種差別や不平等という問題を覆ってしまいさえするのだ。

黒人の不幸は奴隷化されたということである。

白人の不幸と非人間性はどこかで人間を殺してしまったということである。(『黒い皮膚・白い仮面』p.249)

 

 黒人差別にまつわる不幸は、かつて植民地化されてしまったという歴史的事実ただそれのみに起因する。では、この問題はどうやって乗り越えられるか?

二項対立を乗り越える

 白人化を目指す"白い実存"。あるいは黒人の優越性を説く"ネグリチュード"。どちらも黒人が差別から脱するために生まれた。

 しかし、これらは白人-黒人差別という枠組みに囚われている。劣等感はもとより、優越感もまたコンプレックスの裏返しに過ぎない。そこには"白人の優越性"という眼差しが残る。

 差別を本質的に乗り越えるには、"黒人対白人"という構図から"人間と人間"という構図へと転換させる以外にない。それがグリフィンとファノンがともに行き着いた答えだった。奇しくも両者の結論は一致している。

 グリフィンは言う。

 現実には、"我々と彼ら"とか、"私とあなた"といった二項対立は存在しないのだ。すべてを包括する"我々"、同情心とすべての人間に平等な公正を求めることで結ばれた、一つの人類というものがあるだけなのである。(中略)

 文化という監獄の鍵を開けるには、そうするしかないのだ。人間に対する虐待を正当化しつづけることを許している、人種や民族の持つ固定観念という社会に蔓延する害毒を、それが中和してくれるのである。(pp.302-303)

 他方で、ファノンはこう結論づけている。

黒人であるこの私の欲することはただひとつ。道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永久に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。

二グロは存在しない。白人も同様に存在しない。(『黒い皮膚・白い仮面』p.249)

  黒人-白人という二項対立を乗り越えること。それが、二人が最終的に求めたものであった。

 二人が生きた時代からは到底考えられないが、2009年にはアメリカ合衆国初の黒人大統領が誕生した。また、エディ・マーフィやウィル・スミス、マイケル・ジョーダンのような黒人のスーパースターも数多く存在している。当時と比べたら、差別問題はかなり解消されつつあると言える。

 しかし、差別はすべてのマイノリティにつきまとう問題である。それをなくすには、劣等性を指摘するのでも優越性を主張するのでもいけない。思想や信条、人種や民族の違いの前に、"人間と人間である"ことを認めること。それ以外に、解決策はないのだ。

 

私のように黒い夜

私のように黒い夜

 

 

 

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

 

 

『人間とは何か』感想。「人の喜ぶ顔が見たい」がエゴであることを認めよう

 

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)

 

 「人間は自己中心的な欲望で動く機械に過ぎない」ことを老人が論証する

 老人と青年の対話の形で書かれたマーク・トウェイン晩年の著作.人生に幻滅している老人は,青年に向かって,人間の自由意志を否定し,人間は完全に環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎないことを論証する.人間社会の理想と,現実の利己心とを対比させつつペシミスティックな人間観で読者をひきつけてゆく.(Amazonより)

 人間即機械。人間は機械と同じである。老人は青年にそう語る。

 人間に自由意志などは存在しない。そう言うと「いいや、俺は自分の意志で行動している」と反発する人がいるかもしれない。しかし、そうした反発は「『人間に自由意志などは存在しない』という文章を見た」という外からの作用に対する反応として生じたものである。そして、そのように反発するという個人の性向は、遺伝や教育、交際関係等々によって培われている。つまり、一切の外的要因から独立した「自分の意志」などというものは幻想であり、我々の行為全ては機械的な因果関係の産物として現れるのである。

 老人はこのような決定論的人間観を持ち、人間がただ外部から動かされてだけ作用することを一切機械の法則と呼ぶ。この法則は、人間が自由意志を持つがために他の生物よりも優れているとする優越思想を打ち砕く。我々は自由に何かを選んでいるように見えて、自分の外部にある全ての要因によって選ばされているに過ぎないのである。

 ただ、老人のこの洞察は我々を一瞬ひるませるものの、致命的なものとはならない。

「たしかに自分の考えとか行動って、それまでの環境や経験によって規定されるものだよね。それがどうしたの?

 そうあっさりと返されてしまうからだ。そこに葛藤はない。

 一切機械の法則は序の口に過ぎない。老人が我々を刺すのは次の法則によってだ。

 人間唯一の衝動、それは自分自身の安心感、心の慰めを求めること以外にはありえないと、老人は断言する。「人のため」。その言葉の陰にあるエゴイズムを、日の当たるところに引きずり出してしまったのだ。

人間唯一の衝動。それはエゴイズム。

 ひどい大雪、凍えるような寒さ。そんな雪山に白髪の老婆がいた。そこをたまたま通りかかった青年に向かい、老婆は言う。「飢え死にしそうなんです。お金をめぐんでいただけませんか?」。自分のポケットにはたった一枚、25セント硬貨があるのみ。

 青年が自分の全財産をこの老婆にあげた時、彼は気高い心の持ち主だと言えるだろうか?情け深く、慈愛の精神に溢れた人物だと言えるだろうか?

 老人はこの行為をバッサリ切り捨てる。そんなものは自分の心を満足させるための行動に過ぎないと。青年はたった25セントで、老婆を見捨てるという良心の苦痛を回避したというただそれだけなのだ。

 全ての行為は自分自身の精神を慰めることが目的であり、高潔無比の衝動も低劣無類の衝動も、すべて根源は一つであると老人は言う。その法則は次のようなものである。

 結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機――すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対ありえんのだな。(p.31)

 全ての行為は自分自身の心を満足させることを一義的な目的としている。愛、憎しみ、慈悲、復讐、親切、赦しといった人間的な感情・行為の全ては主衝動の異なった結果に過ぎない。愛も憎しみもエゴの表出の仕方が違っていただけで、価値に優劣はない。何よりも第一義的に存在するのは、「自分自身のため」というエゴイズム。

 この洞察を前にしたら、「人のため」なんて言葉を軽々しく使うことはできない。「自己欺瞞していないか?」という厳しい問いが待っているからだ。

繊細な精神を持つ者にとって、施しは苦痛である

 人間の行為は第一義的に自分の満足のためである。それを認めた時、施しをした青年は高潔な魂の持ち主であると称えられるのだろうか?あるいは自分が施しをした時、自らを愛ある人間として誇ることができるのだろうか?

 この問いに「はい」と即答できる人は幸せである。自分の心の底に潜むエゴイズム、老人が言うところの人間唯一の衝動と相対しなくてすむからだ。

 しかし、繊細な精神の持ち主はそうはいかない彼らは自らの行為の欺瞞性、自分の欲望を満足させるために他人を使っているという事実を「善行」というベールで覆い隠してしまうことに、どうしても我慢が出来ないのである。

 じっさい、俺はあわれみ深い連中が好きではない。連中は、同情することで非常に幸せになる。恥ずかしいという思いが、あまりにも欠けている。

 俺は、同情するしかないときでも、同情していると思われたくない。同情するときは、遠くから同情したいものだ。「ツァラトゥストラだ」と気づかれないうちに、顔を隠して、逃げたいものだ。友よ、君たちにもそうしてもらいたい!(『ツァラトゥストラ(上)』p.178)

  ツァラトゥストラ(ニーチェ)は同情するという行為を恥じている。さらには、「しかし乞食は一掃すべきだ! 乞食にやるのは腹が立つ。乞食にやらないのも腹が立つ。」とまで述べている。彼は乞食を見捨てることができないくらいには情け深かったが、その繊細な精神は彼に後ろめたさを感じさせるのだ。

 ツァラトゥストラはまだその矛先を自分に向けている。だが、怒れる哲学者中島義道は、人々の行為に潜む自己欺瞞を徹底的に糾弾する。

 「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」「みんなが喜んでくれるだけでうれしい」……こういうせりふをこの国ではなんと頻繁に聞くことでしょう。そして、私はこういうせりふがなんと嫌いなことでしょう。なぜなら、彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っておりながら、それに気づいていないからです。「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望でしょうか!その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。(『私の嫌いな10の人びと』pp.63-64)

 中島義道は「みんなの喜ぶ顔が見たい人」を自らのエゴに対して鈍感な人間であるとして軽蔑する。鈍感さは誠実さの対極にある態度である。誠実な人間(あるいはそうありたいと思っている人)ほど、利他的行為の陰にあるエゴを無視するという鈍感さを忌む。

 すべての行為はエゴに端を発するものであり、そのことを無視するのは不誠実である。そう認めたとき、同情や施しは無価値になってしまうのか?

「自己満足だけど、それが何か?」

 人間の行為は第一義的に自らを満足させるために行われる。老人のその主張は認めよう。だが、そのことは利他的行為の価値を棄損しない。行為の結果は社会によって評価されるが、その動機の価値を問い続けるのは自分自身だからだ。

 他人に利益を与える行為は社会的に是認される。それは功利主義社会における前提である。ある行為はそれがもたらす帰結によって評価されるため、利他的行為は賞賛されるべき行為となる。この点に関してはなんら問題がない。

 一方で、ツァラトゥストラ中島義道が問題としていたのは行為者の誠実性である。自己欺瞞への軽蔑である。これを克服するためには、「自分の行為は自己満足を最大の目的としている」という事実と正面から向き合うほかない。

 「その人助けって、自己満足でしょ?」。そう問われたときに、顔を真っ赤にして怒り狂うようでは内省が足りない。それは自分自身に対して不断に問い続けていなければならないものだからだ。自分の行動の一番の動機が"自己満足"であると認めた上で、それでもなお"利他的行為"を選んでいる。そう言うことができて初めて、誠実さを保ち続けることができるのである。

 自分は謙虚で高貴な人間であるといった思い上がりをせず、「自己満足で人助けをしてるけど、それがなにか?」と言い返せるだけの強さを持つこと。一見開き直りに見えるこの態度こそが、誠実さの現れなのである。

 

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)

 

 

 

ツァラトゥストラ〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

ツァラトゥストラ〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)

私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)

 

 

『マジでガチなボランティア』感想。「ボランティアは偽善!」「偽善の何が悪い!」の先へ進もう

 

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

 

チャラ男の医大生がカンボジアに学校と病院を建てる話。 

合コンとナンパに明け暮れていた医大生の著者が、ひょんなきっかけから、カンボジアに小学校を建設することを決意。狂ったようにチャリティイベントを開催し、わずか8ヵ月で完成へ。しかし、次の無医村に病院を建てるプロジェクトでは140万円の借金を背負うはめに。彼の想いは実現するのか。(Amazonより引用)

 以前紹介した映画『僕たちは世界を変えることが出来ない』のモデルとなった話。映画はこの本の第一章(全三章)を映像化したもの。続く章はその後により困難な病院の建設を成し遂げた話が書かれており、映画の後日談として読むこともできる。

bookandwrite.hatenablog.com

 チャラ男のカンボジアに学校と病院を建てる話。見出しにも書いた通り、この本を一言で表すとそうなる。だが、その過程には非常に大きな障害がさまざま存在していた。「女子大生を三人連れてこい」とやくざまがいの大人に恫喝されたり当初の仲間がみんな去っていったり、やっとの思いで成功させた大規模イベントが実は大赤字だったり……。筆者はそれらすべての逆境を乗り越えた。

 もちろん、筆者のこの尋常ではないバイタリティに焦点を当てて論じることはできる。そここそがこの本の一番の魅力であり、醍醐味であるのは間違いない。

 しかし、この本がボランティアをやる上でさけられないある問いに正面から答えを出している点こそ最も強調したい。

 その問いとは、「ボランティアは偽善ではないのか?」である。

「ボランティアなんて非効率的な行為、ただの自己満足の偽善なのでは?」

 東日本大震災以来、日本はもちろん世界の各地から被災地への支援が行われた。金銭的・物質的な支援もあれば、現地へ出向いて行うボランティアも多く存在していた。それは現在でも続いている。

 ボランティアのニュースが流れると、ネット上で必ず現れる反応がある。それは、「ボランティアなんて偽善だ」というものである。誰が出そうと、何をやろうと、金は金。チャリティーイベントや「善意のボランティア」なんて非効率的。どうしても支援したいなら黙って金だけ送ればいい。こうした批判が絶えることはない。

 ボランティアに携わる人々に、この難解な問いが差し出された。はたしてこの問いに正解はあるのか。

「やらない善よりやる偽善」は本当に答えになっているのか?

 こうしたボランティア批判に対し、まっさきに思い浮かぶ反論が「やらない善よりやる偽善」である。

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              (『鋼の錬金術師』15巻)

 「やらない善よりやる偽善」というのは非常に功利主義的な回答である。動機など問題ではない。行動することで幸福の総和が増加する。ならそれでいいではないか。誰にも文句をつけられる筋合いはない。

 この回答は一見満点に思える。たしかに、ボランティアするしないは個人の自由であり、することによって喜ぶ人々がいるのは事実だ。それに、心の中なんてものが誰にも見えない以上、"善"も"偽善"も関係ない。野次馬はその行動を否定する権利など持っていない。

 しかし、この答えはある肝心な部分に答えていない。それは、「あなたはどこまで自分の行為と向き合っているの?」という部分である。もっと言うなら、「どうしてあなたは他のどんな選択肢でもなくそのボランティアという方法を選んだの?」「もっと地道だが確実な方法を選ぼうとは思わなかったの?」「『良いことをしている』という事実に満足して、考えることを止めて楽になっているんじゃないの?そんな汚い自分は見ていないの?」という問いである。「ボランティアは偽善ではないか」という言葉の裏には、こうした問いが横たわっている。

 「ボランティアは偽善ではないか」。この問いの本質は、つまるところ行為者の誠実さに迫っているところにあるどうしてボランティアじゃなければいけないのか。ボランティアする時間をコンビニでのバイトにあて、黙々と送り続ける選択肢だってある。本当に支援が目的なら、その結果である支援額の最大化を最優先した行動を真摯に模索し続けることが行われているはずではないか。そうした問いを自分にずっと突きつけてきたのか。そう迫っている。

 誠実であろうとするボランティアは、例外なくこの葛藤を胸に抱え続けていたはずである。その上でなおボランティアを選ぶと言うなら、他の手段にはない、なぜ自分がボランティアをするのかという理由が必要となる

 この辛く厳しい問いに、筆者は悩まされた。そして、ついに答えを出した

知ってしまったものには「伝える」責任が生じる

 ボランティアの目的は「『伝える』こと」。

 その動機は「知ってしまったから」。

 それが筆者の出した答えだった。

 小学校を建てたことで浮かれていた筆者は、カンボジアのAIDS問題を目にして愕然とした。自分は結局この悲惨な現状を変えられてなどいないと、無力感に苛まれた。そして次に現れたのが、病院建設へ踏み切るか否かという選択だった。

 その時、彼の脳裏に浮かんだのが、彼を支援していた人間のある言葉だった。

 

「石松くん、君らは、もう知ってしまったんだよ。そして、知ってしまったら、そこには『伝える』責任が生まれるんだ」

 そうです。僕らは知ってしまったんです。僕は、カンボジアの医療の現場を生で見た、数少ない学生の一人なのです。だから僕には、ラブチャリ(引用注:「ラブチャリティ」というボランティア)を通して伝える責任があります。伝えなくちゃいけないんです。(p.92)

 知ってしまった者には伝える責任が生まれる。その使命感が筆者を動かす原動力となっていた。

 目的が「伝える」ことである以上、ただ送金するだけでは叶わない。なんとかして人々へ伝えなければならない。誠実を失わせることなく、妥協なく考え続けた。その結論がボランティアだったのだ。

 筆者にとって、ボランティアの動機は「伝えなければならない」という使命感だった。そして、続けるうちに他にはないボランティアの意義を見出すにまで至った

「伝える」「知る」「また伝える」の連鎖によって、人の心を動かす

 筆者はボランティアを行っている間、ずっと「学生チャリティ」の意義について思い悩んでいた。資金や規模で企業に到底かなうことがない学生チャリティに、どんな意義があるのか。そして出した結論が次のようなものである。

 前述したように、お金や支援した施設の規模で勝負したら、学生チャリティは大人が行う施設の足元にも及びません。でも、だからといって学生団体が無力だと言い切るのは乱暴です。学生には、学生にしかできないことがあるのです。それは「伝える」「知る」「また伝える」の連鎖によって人々の内面に影響を与えること。僕は、ラブチャリの成果はこれに尽きると思うのです。(p.237)

 筆者の行った「ラブチャリ」のスピーチで感動して泣いた人々がいる。無私でまっすぐな情熱こそが、人の心を動かせる。それこそが、彼が学生チャリティに見出した意義であった。

 筆者の文章を読んでいて、「人を動かす経験は何か」ということに関する次の言葉を思い出した。

僕の経験では、最終目的&優先順位を巡る試行錯誤は、「スゴイ奴」と出会って感染(ミメーシス)しては卒業する経験が、最も効果的です。(『宮台教授の就活原論』p.121)

 「伝える」ことの効果はすぐに現れるものではない。十年後、二十年後と時を経た時に、"感染"した人が行動を起こし、また再び"感染"が起きる。筆者の行っていたボランティアとは、人々が起こす「伝える」連鎖を期待して種を蒔く行為だったのだ

 

『マジでガチなボランティア』。この一見ふざけた書名からは想像もつかないほど「マジ」で「ガチ」な本だった。

 

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)