『人間とは何か』感想。「人の喜ぶ顔が見たい」がエゴであることを認めよう
- 作者: マークトウェイン,Mark Twain,中野好夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1973/06/18
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「人間は自己中心的な欲望で動く機械に過ぎない」ことを老人が論証する
老人と青年の対話の形で書かれたマーク・トウェイン晩年の著作.人生に幻滅している老人は,青年に向かって,人間の自由意志を否定し,人間は完全に環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎないことを論証する.人間社会の理想と,現実の利己心とを対比させつつペシミスティックな人間観で読者をひきつけてゆく.(Amazonより)
人間即機械。人間は機械と同じである。老人は青年にそう語る。
人間に自由意志などは存在しない。そう言うと「いいや、俺は自分の意志で行動している」と反発する人がいるかもしれない。しかし、そうした反発は「『人間に自由意志などは存在しない』という文章を見た」という外からの作用に対する反応として生じたものである。そして、そのように反発するという個人の性向は、遺伝や教育、交際関係等々によって培われている。つまり、一切の外的要因から独立した「自分の意志」などというものは幻想であり、我々の行為全ては機械的な因果関係の産物として現れるのである。
老人はこのような決定論的人間観を持ち、人間がただ外部から動かされてだけ作用することを一切機械の法則と呼ぶ。この法則は、人間が自由意志を持つがために他の生物よりも優れているとする優越思想を打ち砕く。我々は自由に何かを選んでいるように見えて、自分の外部にある全ての要因によって選ばされているに過ぎないのである。
ただ、老人のこの洞察は我々を一瞬ひるませるものの、致命的なものとはならない。
「たしかに自分の考えとか行動って、それまでの環境や経験によって規定されるものだよね。それがどうしたの?」
そうあっさりと返されてしまうからだ。そこに葛藤はない。
一切機械の法則は序の口に過ぎない。老人が我々を刺すのは次の法則によってだ。
人間唯一の衝動、それは自分自身の安心感、心の慰めを求めること以外にはありえないと、老人は断言する。「人のため」。その言葉の陰にあるエゴイズムを、日の当たるところに引きずり出してしまったのだ。
人間唯一の衝動。それはエゴイズム。
ひどい大雪、凍えるような寒さ。そんな雪山に白髪の老婆がいた。そこをたまたま通りかかった青年に向かい、老婆は言う。「飢え死にしそうなんです。お金をめぐんでいただけませんか?」。自分のポケットにはたった一枚、25セント硬貨があるのみ。
青年が自分の全財産をこの老婆にあげた時、彼は気高い心の持ち主だと言えるだろうか?情け深く、慈愛の精神に溢れた人物だと言えるだろうか?
老人はこの行為をバッサリ切り捨てる。そんなものは自分の心を満足させるための行動に過ぎないと。青年はたった25セントで、老婆を見捨てるという良心の苦痛を回避したというただそれだけなのだ。
全ての行為は自分自身の精神を慰めることが目的であり、高潔無比の衝動も低劣無類の衝動も、すべて根源は一つであると老人は言う。その法則は次のようなものである。
結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機――すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対ありえんのだな。(p.31)
全ての行為は自分自身の心を満足させることを一義的な目的としている。愛、憎しみ、慈悲、復讐、親切、赦しといった人間的な感情・行為の全ては主衝動の異なった結果に過ぎない。愛も憎しみもエゴの表出の仕方が違っていただけで、価値に優劣はない。何よりも第一義的に存在するのは、「自分自身のため」というエゴイズム。
この洞察を前にしたら、「人のため」なんて言葉を軽々しく使うことはできない。「自己欺瞞していないか?」という厳しい問いが待っているからだ。
繊細な精神を持つ者にとって、施しは苦痛である
人間の行為は第一義的に自分の満足のためである。それを認めた時、施しをした青年は高潔な魂の持ち主であると称えられるのだろうか?あるいは自分が施しをした時、自らを愛ある人間として誇ることができるのだろうか?
この問いに「はい」と即答できる人は幸せである。自分の心の底に潜むエゴイズム、老人が言うところの人間唯一の衝動と相対しなくてすむからだ。
しかし、繊細な精神の持ち主はそうはいかない。彼らは自らの行為の欺瞞性、自分の欲望を満足させるために他人を使っているという事実を「善行」というベールで覆い隠してしまうことに、どうしても我慢が出来ないのである。
じっさい、俺はあわれみ深い連中が好きではない。連中は、同情することで非常に幸せになる。恥ずかしいという思いが、あまりにも欠けている。
俺は、同情するしかないときでも、同情していると思われたくない。同情するときは、遠くから同情したいものだ。「ツァラトゥストラだ」と気づかれないうちに、顔を隠して、逃げたいものだ。友よ、君たちにもそうしてもらいたい!(『ツァラトゥストラ(上)』p.178)
ツァラトゥストラ(ニーチェ)は同情するという行為を恥じている。さらには、「しかし乞食は一掃すべきだ! 乞食にやるのは腹が立つ。乞食にやらないのも腹が立つ。」とまで述べている。彼は乞食を見捨てることができないくらいには情け深かったが、その繊細な精神は彼に後ろめたさを感じさせるのだ。
ツァラトゥストラはまだその矛先を自分に向けている。だが、怒れる哲学者中島義道は、人々の行為に潜む自己欺瞞を徹底的に糾弾する。
「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」「みんなが喜んでくれるだけでうれしい」……こういうせりふをこの国ではなんと頻繁に聞くことでしょう。そして、私はこういうせりふがなんと嫌いなことでしょう。なぜなら、彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っておりながら、それに気づいていないからです。「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望でしょうか!その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。(『私の嫌いな10の人びと』pp.63-64)
中島義道は「みんなの喜ぶ顔が見たい人」を自らのエゴに対して鈍感な人間であるとして軽蔑する。鈍感さは誠実さの対極にある態度である。誠実な人間(あるいはそうありたいと思っている人)ほど、利他的行為の陰にあるエゴを無視するという鈍感さを忌む。
すべての行為はエゴに端を発するものであり、そのことを無視するのは不誠実である。そう認めたとき、同情や施しは無価値になってしまうのか?
「自己満足だけど、それが何か?」
人間の行為は第一義的に自らを満足させるために行われる。老人のその主張は認めよう。だが、そのことは利他的行為の価値を棄損しない。行為の結果は社会によって評価されるが、その動機の価値を問い続けるのは自分自身だからだ。
他人に利益を与える行為は社会的に是認される。それは功利主義社会における前提である。ある行為はそれがもたらす帰結によって評価されるため、利他的行為は賞賛されるべき行為となる。この点に関してはなんら問題がない。
一方で、ツァラトゥストラや中島義道が問題としていたのは行為者の誠実性である。自己欺瞞への軽蔑である。これを克服するためには、「自分の行為は自己満足を最大の目的としている」という事実と正面から向き合うほかない。
「その人助けって、自己満足でしょ?」。そう問われたときに、顔を真っ赤にして怒り狂うようでは内省が足りない。それは自分自身に対して不断に問い続けていなければならないものだからだ。自分の行動の一番の動機が"自己満足"であると認めた上で、それでもなお"利他的行為"を選んでいる。そう言うことができて初めて、誠実さを保ち続けることができるのである。
自分は謙虚で高貴な人間であるといった思い上がりをせず、「自己満足で人助けをしてるけど、それがなにか?」と言い返せるだけの強さを持つこと。一見開き直りに見えるこの態度こそが、誠実さの現れなのである。
- 作者: マークトウェイン,Mark Twain,中野好夫
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