本のソムリエ〜「もう一度楽しみたい!」となる書評と映画評〜

「あなたの人生を変える本が、きっとある」というコンセプトのもと、本や映画の紹介をしています。「こんな見方があったんだ!」と、作品の魅力を引き出す評論を書いています!

『マジでガチなボランティア』感想。「ボランティアは偽善!」「偽善の何が悪い!」の先へ進もう

 

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

 

チャラ男の医大生がカンボジアに学校と病院を建てる話。 

合コンとナンパに明け暮れていた医大生の著者が、ひょんなきっかけから、カンボジアに小学校を建設することを決意。狂ったようにチャリティイベントを開催し、わずか8ヵ月で完成へ。しかし、次の無医村に病院を建てるプロジェクトでは140万円の借金を背負うはめに。彼の想いは実現するのか。(Amazonより引用)

 以前紹介した映画『僕たちは世界を変えることが出来ない』のモデルとなった話。映画はこの本の第一章(全三章)を映像化したもの。続く章はその後により困難な病院の建設を成し遂げた話が書かれており、映画の後日談として読むこともできる。

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 チャラ男のカンボジアに学校と病院を建てる話。見出しにも書いた通り、この本を一言で表すとそうなる。だが、その過程には非常に大きな障害がさまざま存在していた。「女子大生を三人連れてこい」とやくざまがいの大人に恫喝されたり当初の仲間がみんな去っていったり、やっとの思いで成功させた大規模イベントが実は大赤字だったり……。筆者はそれらすべての逆境を乗り越えた。

 もちろん、筆者のこの尋常ではないバイタリティに焦点を当てて論じることはできる。そここそがこの本の一番の魅力であり、醍醐味であるのは間違いない。

 しかし、この本がボランティアをやる上でさけられないある問いに正面から答えを出している点こそ最も強調したい。

 その問いとは、「ボランティアは偽善ではないのか?」である。

「ボランティアなんて非効率的な行為、ただの自己満足の偽善なのでは?」

 東日本大震災以来、日本はもちろん世界の各地から被災地への支援が行われた。金銭的・物質的な支援もあれば、現地へ出向いて行うボランティアも多く存在していた。それは現在でも続いている。

 ボランティアのニュースが流れると、ネット上で必ず現れる反応がある。それは、「ボランティアなんて偽善だ」というものである。誰が出そうと、何をやろうと、金は金。チャリティーイベントや「善意のボランティア」なんて非効率的。どうしても支援したいなら黙って金だけ送ればいい。こうした批判が絶えることはない。

 ボランティアに携わる人々に、この難解な問いが差し出された。はたしてこの問いに正解はあるのか。

「やらない善よりやる偽善」は本当に答えになっているのか?

 こうしたボランティア批判に対し、まっさきに思い浮かぶ反論が「やらない善よりやる偽善」である。

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              (『鋼の錬金術師』15巻)

 「やらない善よりやる偽善」というのは非常に功利主義的な回答である。動機など問題ではない。行動することで幸福の総和が増加する。ならそれでいいではないか。誰にも文句をつけられる筋合いはない。

 この回答は一見満点に思える。たしかに、ボランティアするしないは個人の自由であり、することによって喜ぶ人々がいるのは事実だ。それに、心の中なんてものが誰にも見えない以上、"善"も"偽善"も関係ない。野次馬はその行動を否定する権利など持っていない。

 しかし、この答えはある肝心な部分に答えていない。それは、「あなたはどこまで自分の行為と向き合っているの?」という部分である。もっと言うなら、「どうしてあなたは他のどんな選択肢でもなくそのボランティアという方法を選んだの?」「もっと地道だが確実な方法を選ぼうとは思わなかったの?」「『良いことをしている』という事実に満足して、考えることを止めて楽になっているんじゃないの?そんな汚い自分は見ていないの?」という問いである。「ボランティアは偽善ではないか」という言葉の裏には、こうした問いが横たわっている。

 「ボランティアは偽善ではないか」。この問いの本質は、つまるところ行為者の誠実さに迫っているところにあるどうしてボランティアじゃなければいけないのか。ボランティアする時間をコンビニでのバイトにあて、黙々と送り続ける選択肢だってある。本当に支援が目的なら、その結果である支援額の最大化を最優先した行動を真摯に模索し続けることが行われているはずではないか。そうした問いを自分にずっと突きつけてきたのか。そう迫っている。

 誠実であろうとするボランティアは、例外なくこの葛藤を胸に抱え続けていたはずである。その上でなおボランティアを選ぶと言うなら、他の手段にはない、なぜ自分がボランティアをするのかという理由が必要となる

 この辛く厳しい問いに、筆者は悩まされた。そして、ついに答えを出した

知ってしまったものには「伝える」責任が生じる

 ボランティアの目的は「『伝える』こと」。

 その動機は「知ってしまったから」。

 それが筆者の出した答えだった。

 小学校を建てたことで浮かれていた筆者は、カンボジアのAIDS問題を目にして愕然とした。自分は結局この悲惨な現状を変えられてなどいないと、無力感に苛まれた。そして次に現れたのが、病院建設へ踏み切るか否かという選択だった。

 その時、彼の脳裏に浮かんだのが、彼を支援していた人間のある言葉だった。

 

「石松くん、君らは、もう知ってしまったんだよ。そして、知ってしまったら、そこには『伝える』責任が生まれるんだ」

 そうです。僕らは知ってしまったんです。僕は、カンボジアの医療の現場を生で見た、数少ない学生の一人なのです。だから僕には、ラブチャリ(引用注:「ラブチャリティ」というボランティア)を通して伝える責任があります。伝えなくちゃいけないんです。(p.92)

 知ってしまった者には伝える責任が生まれる。その使命感が筆者を動かす原動力となっていた。

 目的が「伝える」ことである以上、ただ送金するだけでは叶わない。なんとかして人々へ伝えなければならない。誠実を失わせることなく、妥協なく考え続けた。その結論がボランティアだったのだ。

 筆者にとって、ボランティアの動機は「伝えなければならない」という使命感だった。そして、続けるうちに他にはないボランティアの意義を見出すにまで至った

「伝える」「知る」「また伝える」の連鎖によって、人の心を動かす

 筆者はボランティアを行っている間、ずっと「学生チャリティ」の意義について思い悩んでいた。資金や規模で企業に到底かなうことがない学生チャリティに、どんな意義があるのか。そして出した結論が次のようなものである。

 前述したように、お金や支援した施設の規模で勝負したら、学生チャリティは大人が行う施設の足元にも及びません。でも、だからといって学生団体が無力だと言い切るのは乱暴です。学生には、学生にしかできないことがあるのです。それは「伝える」「知る」「また伝える」の連鎖によって人々の内面に影響を与えること。僕は、ラブチャリの成果はこれに尽きると思うのです。(p.237)

 筆者の行った「ラブチャリ」のスピーチで感動して泣いた人々がいる。無私でまっすぐな情熱こそが、人の心を動かせる。それこそが、彼が学生チャリティに見出した意義であった。

 筆者の文章を読んでいて、「人を動かす経験は何か」ということに関する次の言葉を思い出した。

僕の経験では、最終目的&優先順位を巡る試行錯誤は、「スゴイ奴」と出会って感染(ミメーシス)しては卒業する経験が、最も効果的です。(『宮台教授の就活原論』p.121)

 「伝える」ことの効果はすぐに現れるものではない。十年後、二十年後と時を経た時に、"感染"した人が行動を起こし、また再び"感染"が起きる。筆者の行っていたボランティアとは、人々が起こす「伝える」連鎖を期待して種を蒔く行為だったのだ

 

『マジでガチなボランティア』。この一見ふざけた書名からは想像もつかないほど「マジ」で「ガチ」な本だった。

 

マジでガチなボランティア (講談社文庫)

マジでガチなボランティア (講談社文庫)