『すばらしい新世界』感想。ベンサム先生、これが理想の社会ですか?
全ての功利主義者はこの本を読むべきだ。理想の果てのディストピアがここにはある。
西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め…驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版!(Amazonより)
SF小説はしばしばディトピアを描いてきた。ビッグブラザーの支配する『1984年』に、本という本が焼き払われる『華氏451度』。どちらの世界もディストピアと呼ばれるにふさわしい危うさを持っている。
だが、『素晴らしい新世界』は違う。この世界の人々に不安や葛藤などはなく、安定した秩序を築いている。人々は快楽を好きな時に貪ることができ、不満を持つことなどないように「条件付け」される。落ち込んだ時にはソーマを飲めば鬱など吹っ飛ぶ。不安のないこの世界をベンサムが見たらなんと言うだろうか?
ベンサムは功利主義の祖だ。功利主義者は「最大多数の最大幸福」を目指すが、ベンサムはその中でも「快」こそが唯一の善であるとした。
自然は人類を快楽と苦痛という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。
(世界の名著第38巻『道徳及び立法の諸原理序説』p.81)
われわれの行動規範が苦痛と快楽だけだとしたら、この新世界はどうしてディストピアであろうか?むしろユートピアではないか。ベンサムならこう言うに違いない “Brave New World!(ああ、すばらしい新世界!)”と。
だが、本当にこれは理想だろうか。もしわれわれが新世界に一片の疑いも持たないようなら、そもそもハクスリーはこの本を書いていない。
快楽は善。それなら快楽に満ち満ちた世界はユートピアに違いない。その理屈は至ってシンプルで、論理的な反論が難しい。ただ我々は違和感を持つ。そして彼、”野蛮人”と呼ばれたジョンも。ジョンが力強くも悲痛に叫ぶ次の場面は、SF小説史上屈指の名シーンだ。
「快適さなんて欲しくない。欲しいのは神です。詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です」
「要するにきみは」とムスタファ・モンドは言った。「不幸になる権利を要求しているわけだ」
「ああ、それでけっこう」ジョンは挑むように言った。「僕は不幸になる権利を要求しているんです」
(『すばらしい新世界』p.340)
彼は不幸になる権利を要求する。彼が新世界に持った違和感。それは、不幸になる自由を与えられていないことであった。では、自由とはそもそも何であろうか?
ベンサムと同じく功利主義者のJ.S.ミルは、『自由論』にて次のように述べている。
「国を愛するひとびとが求めたのは、支配者が社会にたいして行使できる権力に制限を設けることであった。そしてこの制限こそ、彼らのいう自由の中身であった」
(『自由論』(光文社版)p.14)
自由とは権力に対する制限である。仮に「条件付け」教育の結果、われわれが「幸せに」生活できるようになったとしても、その生き方しか選べないのならそこに自由はない。ジョンは快楽を押し付ける権力に唾を吐き、自由を渇望した。
ジョンの姿はわれわれに次のことを問いかける。「お前は満足した豚となるのか、それとも不満足な人間を選ぶのか」と。この問いに答えるのは容易ではない。だが、この「満足した豚」への躊躇いこそが、われわれが人間たる証なのだろう。
- 作者: ジョン・スチュアートミル,John Stuart Mill,斉藤悦則
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/06/12
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