『タテ社会の人間関係』「自称コミュ障」はなぜ現れる?
「私コミュ障だから、人と話すの苦手なんだよねー」
明るく愛嬌のある人が笑いながら自虐の言葉を口にする。滑稽な気もするが、男女問わずこうした自称「コミュ障」は近頃よく見うけられる。
「コミュ障」とは「コミュニケーション障害」の略で、人との交流が苦手な人のことを指す言葉である。元々ネットスラングであるこの言葉は、日本に多数存在していた「コミュ障」を顕在化させた。言われてみればあの人は「コミュ障」かもしれない、自分は「コミュ障」だったのか、など、この新概念は人を評価するときの属性として広く定着した。
そして、「コミュ障」を自認する人が増えたことで生まれたのが冒頭のような状況である。どう見ても「コミュ障」に見えない「自称コミュ障」が生まれているのである。
では、なぜこうした人々が現れるのか。実はそう見えないだけで本当に「コミュ障」なのか。「そんなことないよ」と言ってもらいたいのか。それとも単に「コミュ障でない」ことのハードルを高く設定しているのか。
この素朴な疑問に対し、日本の組織構造の特色という思考の補助線を与えてくれるのが、以下に取り上げる『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』である。
著者の中根千枝は1926年生まれの社会学者。女性初の東大教授であり、インド・チベット・日本の社会組織を専門としている。
中根はインドのカースト制と比較することで日本の組織構造の特徴を浮き彫りにしている。それは、インドは「資格」の文化である一方、日本は「場の文化」であるということである。
一定の個人からなる社会集団の構成の要因を、きわめて抽象的にとらえると、二つの異なる原理――資格と場――が設定出きる。すなわち、集団構成の第一条件が、それを構成する個人の「資格」の共通性にあるものと、「場」の共有によるものである。
(p.26)
ここで「資格」とよぶものは、通常使われている意味よりも広く、社会的個人の一定の属性をあらわすものである。たとえば、氏・素性といった先天的なものや、学歴・地位・職業などの後天的なもの、また経済的に言えば資本家・労働者などがそれぞれ資格に該当する。資格による集団構成とは、こうした特定の血縁集団、職業集団、カースト集団などのことを言う。
一方、「場」による集団構成というのは、一定の地域や所属機関などのように、資格の相違を問わず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合を指す。たとえば、××村の成員や、〇〇会社の社員というのがこれに当たる。
こう区分した時、日本人の集団意識は場に強くおかれているが、インドでは反対に資格におかれている。日本では学校や会社といった「ムラ」を中心に集団が組織されるが、インドでは基本的に職業・身分による社会集団が形成されている。
こうした集団の構成方法の差異が、日本人から社交性を育てる機会を失わせていると中根は指摘する。
社交性の欠如は、こうした社会全体の仕組み、基本的な人間関係のあり方につながるのであるが、特に強調したいのは、前述した枠による集団の構成のあり方からは、およそ社交性というものを育てる場がないということである。
すなわち、社交性とは、いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振舞いうるということであるが、一体感を目標としている集団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、好むと好まざるとにかかわらず接触を余儀なくさせられ、個人は、集団の目的・意図によりかなっていれば社会的安定性がえられるのであり、仲間は知りつくしているのであり、社交などというものの機能的存在価値はあまりないのである。(p.52)
場によって構成される集団内には強い同調圧力が生じる。日本では、はたから見ておかしなことをしていないか、自分は場に溶け込めているかということを意識せずには生きられない。そして、そうして狭い集団の中で安定した立場さえ確保できていれば、外へ飛び出して交流する必要性も存在しない。このように、他の価値観、文化を有する集団との社交がなくても困らないという事実が、日本人から社交性を養う機会を失わせてきたのである。
また、場の教育機能も日本人の閉鎖性に拍車をかけている。日本人は自分が所属する場が有する規範、行動様式を叩きこまれる。それらは場によって異なるものであり、地域性が強い。地域性とは単に地理的な特性を意味するのではなく、特定の枠の中でのみ見られる性質を意味する。地域性が強いということは、特殊性が強いことを意味する。つまり、その場でしか通用しないルールを身につけてしまうということだ。「いなかっぺ」「専門バカ」など、狭い社会しか知らない人を揶揄する言葉が存在するのは、自分たちの世界以外のことをあまり知らない人が少なからずいることを示している。
ここまでくると冒頭の疑問は氷解する。明朗で快活に見える人が「コミュ障」を自称するのはなぜか。それは、自分と「場」を同じくする相手に対してではなく、他の「場」との接触や「資格」による集団構成に慣れていないことへの自覚を示しているのである。「場」の内部で人間関係が完結しても困ることがないために他集団との接触の機会が少なくなったり、身につけた地域性の強い文化が他人との交流において齟齬を生じさせたりするといったことが生じている。このことが「自称コミュ障」を生んでいるのだ。
異質な他者との交流には摩擦が必ずついてまわる。たとえ同じ言語を話していたとしても、自分と同じ文脈で捉えられる保証などないのだ。言葉の選び方を一つ間違えただけでトラブルになった例などは枚挙にいとまがない。だからこそ、お互いの文脈をすり合わせるためにじっくりとした対話が必要になる。
自分が「コミュ障」であると開きなおっている場合ではない。格好のいいコミュニケーションなど求めなくていい。
ただ地道な対話と、自分の「枠」を超える勇気を。