本のソムリエ〜「もう一度楽しみたい!」となる書評と映画評〜

「あなたの人生を変える本が、きっとある」というコンセプトのもと、本や映画の紹介をしています。「こんな見方があったんだ!」と、作品の魅力を引き出す評論を書いています!

『やさしさの精神病理』感想。その"やさしさ"は"ぬいぐるみのやさしさ"?

 

やさしさの精神病理 (岩波新書)

やさしさの精神病理 (岩波新書)

 

 

 目の前で泣いている人がいる。なにやら彼(彼女)にとって深刻な事態が起こったようで、悲痛な面持ちをしている。さて、”やさしい”人ならここでどうするだろうか。深く共感し一緒に泣くのか。余計な言葉をかけずにただ黙って傍にいるのか。どちらが“やさしい”と言えるのだろうか。

 精神科医である著者は、時代を経て“やさしさ”の質が変わったという。昔は相手の心に深く立ち入り、同情や共感をするようなのが“やさしさ”だった。いわば金八先生的な、熱血的な“やさしさ”である。翻って今日の“やさしさ”はもっとクールなものだという。立ち入らない。踏み込まない。そっとしておくのが“やさしさ”だと。

 著者が受け持った患者の中で、ぬいぐるみへの執着を見せた者がいた。彼は言う。「ぬいぐるみが自分にとっていちばん“やさしい“存在」である、と。彼にとって、自分の心に踏み込まないぬいぐるみこそが”やさしさ“の極地なのだ。これは同時に、自分の心に干渉して欲しくないという彼の欲求をも表している。

 過干渉より不干渉。干渉を求めないのが現代人に共通する特徴であるなら、彼らの求める先にあるのは“ぬいぐるみのやさしさ”しかない。口を開かず黙って自分を受け入れる者(物)を求める。たしかにそれは心地よいかもしれない。傷つかなくて済むからだ。

 しかし、“ぬいぐるみのやさしさ”を求める人にコミュニケーションはできない。コミュニケーションは相手を尊重して初めて可能になる。相手を一つの人格として、かけがえのないものとして接することが前提として必要なのだ。だが、“ぬいぐるみ”を求める者にはその前提を持てない。彼が求めているのは「自分を黙って受け入れてくれる何か」であり、それは代替可能なものなのだ。

 我々は傷つくことを恐れるあまり、“ぬいぐるみ”を求めることがある。だが、相手とのコミュニケーションを望むなら、一歩踏み出さねばならない。“ぬいぐるみのやさしさ”の先に、互いの尊重などありえないのだから。