本のソムリエ〜「もう一度楽しみたい!」となる書評と映画評〜

「あなたの人生を変える本が、きっとある」というコンセプトのもと、本や映画の紹介をしています。「こんな見方があったんだ!」と、作品の魅力を引き出す評論を書いています!

『愛という試練』感想。愛なき人間は死ぬべきなのか?

 

愛という試練

愛という試練

 

 

 「愛は素晴らしい」なんて中島義道の前で言ってはいけない。必ず冷や水をぶっかけられることになるからだ。

 

 現代日本には愛を語る言説は至る所に氾濫している。音楽・テレビドラマ・小説など、愛を題材とする作品を見ない日はないほどだ。そしてほぼ全ての場合において愛は無条件に肯定される善なるものとして捉えられ、人間が人間たるための必要条件とまでみなされることもある。

 こうした風潮を示すような事例として、あるテレビ番組における石原慎太郎都知事の発言がある。

 この番組は若い男女50人が愛について語るもので、石原はその場にゲストとして呼ばれていた。そこで彼は若い男女たちに「こいつのためなら死んでもいいと思ったことのある人は?」という質問を投げかけた。そして続けざまに「そんな経験のない奴は自殺した方がいい!」と吐き捨てるように言った。会場で彼の発言に反論する者はいなかった。さも当然であるかのように受け入れられたのだ。
 これは現代日本の象徴的な事態であるとともに、愛という言葉の神性、不可侵性を人々が無条件に了解していることを示している。
 だがこのような素朴な信仰が人々に受け入れられている一方、愛という観念は暴力性を孕んでいることを中島は指摘する。

現代日本のマジョリティはひとを愛することは当然であり、この能力の欠如している者を人間のかたちをした怪物のように忌み嫌う。どんなに学力があっても、仕事ができても、ひとを愛することができなければ虫けら同然だという論理を振り回す。他方、愛することさえできれば、いかなる欠点をも帳消しにするほど人間として立派なのだと考える

 これこそがまさに恋愛至上主義というドグマの持つ暴力性に他ならない。
 ここであえてドグマという言葉を用いたのは、信仰を理性よりも優位に置くという点で人々の愛に対する態度が宗教に対する態度と通じているからだ。ここでは信仰の「正しさ」を理性的に確認しないという立場が積極的に取られ、信仰に対する疑念が少ない者ほど「愛情の深い人」だと人々に認められるし、またその逆の者は「愛のない人」として侮蔑されることになる。
 例えば娘が万引きをしたことでスーパーの店長から父親に呼び出しがかかったというケースを考えてみよう。この時愛情に溢れた父親で会ったら「もうしないよ」と泣きじゃくる娘の言葉を留保なしに受け入れ信じるだろう。だがここで「この前もそう誓って約束を破ったことがあったし、日頃の行いを見ると信じられないな……」などと発言すれば、娘は父親を冷徹で無慈悲な人間としてみなし怒りと失望を覚える。父親の理性的な態度は自分を信じていないことの表れであり、無条件に自分の味方であってくれるという愛を彼が持っていなかったことを示すからだ。ここで娘が父親に求めているのは、客観的な態度を捨て、自分の言葉が不合理であろうと、いや不合理であるからこそ自分だけでも信じようとする非理性的な態度なのである。

 相手に非理性的であることを求め、信仰に屈服することを望むという暴力性を愛は持っている。しかし、愛の持つ暴力性はこれだけではない。愛は愛する者-愛される者の関係において暴力的な支配形態を作り出す。

 愛する者-愛される者の間の支配関係と言うと、愛される者が愛する者を支配しているように思われる。愛する者の世界は愛される者に対する思い出で満たされ、その面影で充満するからだ。
 だがこの世界は愛する者の「表象」にすぎないということを留意せねばならない。愛する者は愛される者を自らの表象に閉じ込め、愛される者が自分を支配するような王宮を造り出し、そこに相手を主人として、また自らを奴隷として配置した。ここにおいて配置の主体は愛する者であり、だからこそ実際は彼こそが主人であり、愛される者は主人という形をした奴隷に過ぎない。
 しかし愛する者が愛される者を自らの王宮に閉じ込めた時、彼には再び苦難が生じる。愛する者は愛される者を表象と変えることでその「存在」を奪った。だがこうした転換は不可能であること彼は自覚することになる。自分が得られるのは相手の存在ではなく表象という巨大な贋物だと気付いた時、愛する者は自分が奴隷の身に転落したことを知り絶望する。
表象は存在の前では無力である。表象からはみ出して現実に存在する愛される者が現れた時、愛する者の表象世界は崩壊する。存在の前で、表象は自らが表象であることを自覚する他ないからだ。
 そして相手の表象のみを支配することの虚しさ、存在を支配できないことの虚しさを知った愛する者は、その弁証法的発展を経てしばしば強行な手段を取ることになる。つまり、愛される者を自分の体感の内に留めておこうと、常に相手の存在を感じていようとするのである。
この欲望は、単純な形態では物理的拘禁といった形で現れる。しかし物理的拘禁は犯罪にも繋がるために頻繁に見られるものではない。現代日本にありふれた拘禁の形態とは、相手と自分とのあいだをガラス張りにしようという形での支配である。相手固有の世界を焼き払い、全てを「丸見え状態」にするという形での支配である。
 相手の世界にすみずみまで侵入しようとする者は自分への秘密を一切許さない。「なんでも相談してね、ささいなことでも話してね」と相手に迫り、相手に隠し事があると分かるや否や「なんで教えてくれなかったの!」と責め立てる。相手が自分の支配下から抜け出ることを許さず、「どうして話してくれなかったの。私を信頼していないの?私を愛していないの?」と追及する宗教裁判を行う。これこそが愛によって生じる独特の暴力的な支配関係である。

 人はロマンなしに生きていけない。無価値なままの生を生きるだけの強度を持つことは困難だからだ。だからこそ人は愛を渇望する。たとえそこに暴力性が潜んでいようとも望まざるを得ない。
 だがこうした暴力性の無自覚は信仰への屈服、愛の持つ暴力性を無自覚の内に肯定することを意味する。だが相手を表象ではなく自己との同一世界内存在であると認めた上で独我論を脱し、一つの人格として尊重するために、暴力性の自覚は不可欠なものだ。
 愛の持つ暴力性への自覚。これこそが愛という信仰に対して我々のできる、ささやかな理性的反抗なのだ。