本のソムリエ〜「もう一度楽しみたい!」となる書評と映画評〜

「あなたの人生を変える本が、きっとある」というコンセプトのもと、本や映画の紹介をしています。「こんな見方があったんだ!」と、作品の魅力を引き出す評論を書いています!

「俺はガンダムで行く」には戦士としての覚悟とオタクとしての気概が凝縮されている『レディ・プレイヤー1』感想

※本記事は『レディ・プレイヤー1』に関する軽度なネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。

 

「俺はガンダムで行く」に日本中が湧いた

「声に出して読みたい台詞大賞」があるとしたら、2018年度の大賞はきっとこれ。

「俺はガンダムで行く」

https://twitter.com/8pieL_4/status/991687863258435590

「俺はガンダムで行く」の元ネタとは?

背景を知らない人のために説明すると、「俺はガンダムで行く」の元ネタは、現在公開中の映画レディ・プレイヤー1の劇中台詞です。
"OASIS"というVR(仮想現実)が流行した近未来、人々にとってOASISでの生活は現実と同様かそれ以上に大切なものとなっていました。
しかし、ある大企業が営利のためにOASISを牛耳ろうとしたため、主人公は戦いを挑むことになります。
そうして迎えた最終戦争で、敵の親玉が乗った機体はなんとメカゴジラ
他のプレイヤー達の何十倍ものスケールを持った巨大メカゴジラは、戦場を蹂躙していきます。
主人公もそれには太刀打ちできず、万事休す、という場面で先頭に参加したのが、主人公の仲間であり日本人のダイトウでした。
「ダイトウ、速く戦闘に参加しろ!」と仲間に急かされるも、それに応じず精神集中をしていたダイトウ。
それが、仲間の絶体絶命の場面で、ついに戦闘へ合流!
好きなキャラクターに変身できるアイテムを使い、ガンダムへと変身したダイトウは、仲間の窮地を救い、果敢にもメカゴジラへと戦いを挑みに行く......。
この出陣シーンでダイトウの放った台詞こそが、「俺はガンダムで行く」なのでした。


映画『レディ・プレイヤー1』、ガンダムへの変身シーン!

 

realsound.jp

「ダイトウ、行きまーす!」であるべきだった?

最高に燃える展開でのこの台詞は、観た人の多くを虜にしました。

しかし、この台詞が話題になったのは、ただそれだけが理由ではありません。

人々の関心を集めたある議論が存在するのです。

それは、「ダイトウ、行きまーす!」では駄目だったのか、という議論です。

「○○、行きまーす!」とは、言わずもがな、機動戦士ガンダムの主人公、アムロが出撃するときの定番セリフです。
スピルバーグは『行きまーす!』と言わせるべきだった」とある映画評論家がコメントをしたという噂がTwitter上で流れため、本編の台詞の是非について議論が盛り上がることになったのです。


レディ・プレイヤー1』では劇中のいたるところにサブカルのオマージュを盛り込んでいます。
だからこそ、ガンダム本編の名台詞を使ってもよかったのではないか、という意見も理解できます。
「俺はガンダムで行く」と「ダイトウ、行きまーす!」。
どちらの台詞を選ぶかというのは、何を表現したいかの違いであるため、「こちらであるべき」と論ずるものではありません。
ただ、「俺はガンダムで行く」という台詞が選ばれたことで、表現されたものがあります。
それは、このシーンにおけるダイトウの、そしてギークが持つ気概です。

オタクのアイデンティティは、"選ぶ"ことに現れる

 

レディ・プレイヤー1』に出てくる主人公チームは、オタク(ギーク)の集まりでもあります。
普段の会話がサブカルからの引用まみれであることは当然ながら、デッド・プールのコスプレで街を歩いたり、工場でアイアン・ジャイアントの製造までしていたり......。彼らは特定の趣味に対して途方も無い情熱を注いでいます。

オタクとは、人並み外れた関心を向ける何かを持っている人種です。
彼らの愛情は凄まじく、常人には理解できないということも多々あります。

f:id:bookandwrite:20180502234349p:plain

「アオいいよね」「いい…」(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』166巻 p.96)



日本でも、極端なアニメオタクやゲームオタクなどが(悔しいことに)嘲笑の対象となることが多々あります。
「どうしてそんなことに熱狂できるの?暇なの?」と言われることさえあります。

grapee.jp

たしかに、他人からは理解できない趣味に没頭していると、しばしば冷たい視線を浴びることになります。

しかし、それにも関わらず趣味を捨てられない人は、オタクであることをやめられなかったとともに、それを生き様として選んだ人でもあるのです。
他人が何を言おうと、自分はこれを愛している。
そこまでの強烈な愛情を何かに向けたとき、愛情の対象は自分から切り離された存在ではなく、自分のアイデンティティを構成する要素となります

つまり、「何かを愛し、選ぶ」という行為は、それ自体が曖昧模糊な"自分自身"を象徴するものとなるのです。

f:id:bookandwrite:20180502234340p:plain

「なぜならそれは俺そのものだから!」(『げんしけん』5巻p.46)

"I choose the form of Gundam"に込められたダイトウの気概

 

さて、「俺はガンダムで行く」のシーンに戻ります。

 


映画『レディ・プレイヤー1』、ガンダムへの変身シーン!

この短い一言にはダイトウの強い想いが現れています
それは、この台詞の英訳からも明らかです。

「俺はガンダムで行く」は、英語字幕では"I choose the form of Gundam"となっています。

ここで注目したいのは、"choose"という動詞です。
ただ単に、「ガンダムというキャラクターで戦場へ赴く」ということを伝えたいだけなら、"go by the form of Gundam"でもよかったはずです。
むしろ、"何で行くか"を伝えたいだけなら、手段を表す前置詞"by"を用いる方が適切とさえ思えます。

しかし、実際にこのシーンの英訳で使われたのは、"choose"でした。
ここには、「俺はこのガンダムという機体を、世界を救う戦いを共にする相棒として選んだんだ」というダイトウの気概が現れています。
劇中では直接描かれていませんが、その気概の源泉にあるのは、強烈な"好き"という感情でしょう。

「どのキャラクターが一番強いか」
「どのキャラクターなら巨大なメカゴジラを打ち倒せそうか」

といった合理的な判断ではなく、自分自身の中にある強い想いに突き動かされ、選んだのがガンダムだったのです。

「一番強くなくたってかまわない」という想い

レディ・プレイヤー1』の原作小説、『ゲームウォーズ』では、主人公のウェイドがその熱い情熱からあるロボットを選択しています。
以下は、ウェイドがゲームクリアの報酬として、鉄人28号からマクロスまで、百種類以上のロボットから欲しいものを選ぶシーンです。

本物の、ちゃんと動くロボットをもらえるのかもしれない。そう考えて、選択に慎重になった。一番強くて、一番装備のいいロボットを選びたい。しかし、レオパルドンを見つけた瞬間、ジョイスティックを動かす手がぴたりと止まった。コミックの『スパイダーマン』を原案として一九七〇年代に日本で製作された特撮テレビドラマ『スパイダーマン』に登場する巨大ロボットだ。リサーチの過程で『スパイダーマン』を知って以来、とりこになってしまった。レオパルドンを見つけた瞬間、どれが一番強そうかなんてどうでもよくなった。絶対にレオパルドンがいい。一番強くなくたってかまわない。(『ゲームウォーズ(下)』p.112)

なんと、数ある超有名ロポットの中から、ウェイドが選んだのは東映スパイダーマンに登場した"レオパルドン"というマイナー ロポットだったのです(その筋には有名だけれど)。

このレオパルドンを選んだ時の、
「一番強くなくたってかまわない」
というたった一言に、気概が、想いの強さが現れているのです。
性能を比べて選んでしまうと、その愛情は代替可能なものとなってしまいます。
対象を比較可能な要素へと分解し、他と比べることで価値を見出す営みは、言うならば相対的な愛情でしょう。

しかし、"好き"がアイデンティティに直結している彼らの愛情は、他と替えられない絶対的なものです。
強かろうが弱かろうが、そんなことはどうでもいいのです。

 

f:id:bookandwrite:20180502233310j:plain

つよいポケモン よわいポケモン そんなの ひとの かって

ダイトウがガンダムを選んだのも、決してガンダムが一番強いと思ったからではないでしょう。
「絶対にガンダムがいい」という想いがあったからこそ、「俺はガンダムで行く」となったのです。

 

好きだから、選ぶ

強敵に立ち向かう戦士としての覚悟と、自分の愛するガンダムを選ぶんだというオタクとしての気概

これらの想いが見事に凝縮されたのが、「俺はガンダムで行く」だったのです。

 

 

 

 

 

こちら葛飾区亀有公園前派出所 第166巻 ジャンプ40年史の旅の巻 (ジャンプコミックス)
 

 

 

げんしけん(5) (アフタヌーンKC)

げんしけん(5) (アフタヌーンKC)

 

 

『スーパーサイズ・ミー』感想。一ヶ月間マックを食べ続けたら、人の身体はどうなる?

 

スーパーサイズ・ミー [DVD]

スーパーサイズ・ミー [DVD]

 
 肥満症に悩む女性ふたりがファーストフード会社を訴えたニュースをきっかけに、1日3食1ヵ月間ファーストフードを食べ続けたら人間の体はどうなるかを検証した異色の食生活ドキュメンタリーが低価格で登場。監督自ら身体を張って過酷な人体実験に挑む。(Amazonより)

一ヶ月間マックしか食べなかったら人はどうなるのか

 この映画の概要は一言で表せる。一ヶ月間マックしか食べなかったら人はどうなるか、監督自らが実験台となったドキュメンタリーである。

 監督のモーガンはこの映画を撮るにあたり、いくつかルールを定めた。

 一つ、毎日三食マックを食べること。

 一つ、マック以外の食品は口にしないこと。

 一つ、サイズを聞かれたら"スーパーサイズ"にすること。

 など、ファーストフードが人体にもたらす影響を正確に調査するためにモーガンは厳しくルールを定めた。

 なお、スーパーサイズとは、S、M、Lのさらに上のサイズのことで、日本で言うところの"特大"にあたる。Sサイズのフライドポテトが200kcalなのに比べて、スーパーサイズは600kcal三倍のカロリーになっている。

 

f:id:bookandwrite:20151220080108p:plain

            (参考:一番右がスーパーサイズ)

 モーガンはこんな生活を一ヶ月間続けた。はじめは身体の拒否反応からか吐いてしまうこともあったが、「禁煙と同じで三日過ぎれば慣れる」と言ってからは特段苦しむこともなくマック生活を楽しんでいた。

 途中経過を観測するためにモーガンは定期的に医師の診察を受けていたが、途中でドクターストップが入る。こんな生活を過ごしていたら大変なことになると警告されたのだ。

 だが、モーガンはくじけることなくやり遂げた。その結果どうなったか。

 体重は12kg増え、体脂肪率は10%増加。その他内臓機能のリスクが大幅に上昇した。

 正直なところ、この結果を見ても驚くことはなかった。むしろ、最初の検査の時点で7kg増えていたことからしたら、「そんなものか」とさえ思うほどであった。なにしろ一ヶ月間マックしか食べない生活が身体に良くないことはわかりきっていただからだ。

 だが、この映画は人体実験の一部始終をただ流しているわけではない。現代のアメリカの大手ファーストフード会社への批判がメッセージとして盛り込まれている。

一年間で741個のビッグマックを食べる男

 マクドナルドはおよそ10億4000万ドルもの広告費を投入している(映画製作当時)。大手お菓子メーカーのハーシーの広告費が2億ドル、ガン予防のために野菜を食べようキャンペーンが200万ドルといったことと比べても、その額が膨大であることがわかる。

 こうした宣伝の効果か、アメリカ人はファーストフードを本当によく食べる。アメリカの調査機関ギャラップ社が2013年に行った調査によると、ファーストフードを週一回利用している人が約5割りいることが分かっている。

f:id:bookandwrite:20151220082207g:plain

(週一以上の利用は5割近く…米国のファストフード好き具合をグラフ化してみる - ガベージニュースより引用)

 ファーストフードを利用する人の内、週に3~4回利用する人のことをスーパー・ヘビー・ユーザーと言う。本映画では、このスーパー・ヘビー・ユーザーの割合は、なんと全利用者の内22%にまで上っていると説明している。

 作中に出てくる"ビッグマック・マニア"ゴースクは、本映画の中で最も強烈なマックユーザーだ。彼は初めてビッグマックを食べた日にその美味しさに感動し、その日だけで9個ものビッグマックをたいらげた。その後は一日二つビッグマックを食べるようになり、今では一年間で741個ものビッグマックを食べる生活をしているという。

f:id:bookandwrite:20151220082956p:plain

          (参考:"ビッグマック・マニア"ゴースク) 

 このようにファーストフードが根強い人気を誇るアメリカだが、それが最も深刻な形で現れているのが子どもの食生活である。

学校給食に入り込むファーストフード

 日本の公立学校では給食があり、栄養バランスの取れた食事が提供されている。また、食堂がある学校の場合でも、その場で調理された食事が出されることが多い。

 しかし、アメリカの公立学校にはファーストフードやスナック菓子メーカーが入り込んでいる。給食としてスナック・ケーキやコーラ、ゲータレードが提供されるのである。また、農務省から学校に提供される食事もそのほとんどが冷凍食品や缶詰で、一食で1000kcalを超えることすらあると言う。

f:id:bookandwrite:20151220084748p:plain

                                     (参考:アメリカの公立学校の給食)

 大手ファーストフード・チェーンにとって、学校給食は巨大利権なのである。堤美果は、2008年に『ルポ 貧困大国アメリカ』にて学校給食にファーストフード・チェーンが入り込んでいる現状を指摘している。

 

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

 

 学校給食という巨大マーケットを狙うファーストフード・チェーンも少なくない。政府の援助予算削減にともない、全額無料では提供しきれずにマクドナルドやピザハットなどの大手ファーストフード企業と契約する企業も増えている。調査結果によると全学校区の約29%が大手ファーストフード・チェーンから申し出を受けており、その率は生徒数が5000人を超える学校区では約6割という高率になっている。(『ルポ 貧困大国アメリカ貧困大国アメリカ』p.22)

 政府の予算削減を好機として、ファーストフード・チェーンが学校給食の現場へと入ってきているのである。ジョージ・ブッシュ政権は2007年度に6億5600万ドルの無料食料援助予算削減を実施し、その結果約4万人の児童が無料給食プログラムから外された。こうした予算の削減が、ファーストフードを食べる子どもの数を増やしているのである。

 また、貧困とファーストフードは密接に結びついている。裕福な家庭では栄養価の考えられたお弁当を子どもに持たせることができるが、貧しい家庭では安価なファーストフードに頼らざるをえないことがある。また、給食だけでなく、普段の生活においても低価格・高カロリーなファーストフードは重宝される。

 このように貧困家庭がファーストフードをよく食べることは、はたして自己責任なのだろうか?

 

 この映画が撮られるきっかけとなったある裁判がある。それは、2002年にアメリカで男女八人が「マクドナルドは青少年に肥満という流行病をもたらした」としてマクドナルドを相手に訴訟を起こしたというものである。

 この裁判で、マクドナルド社側の弁護士たちは、「ファーストフードを食べ過ぎればどんな悪影響があるのかは、常識のある人ならだれでも知っている」とし、肥満は「個人の責任」だと反駁した(参考:donga.com[Japanese donga])。

  また、最近では厚労省が「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がない」「食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」とコメントをして話題となった。これもまた、食生活の乱れ=自己責任論を思わせるものである(参考:厚労省の「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がない」「健康への関心を高めて」発言が「貧困層あおってるのか」と話題に - ねとらぼ)。

 「食生活の乱れは自己責任だ!」と叫ぶ人には以下の事実を見て欲しい。アメリカでは「貧困」と「肥満」が同義語になるような現状があるのだ。

世界的な経済学者のポール・ゼイン・ピルツァーは、著書『健康ビジネスで成功を手にする方法』の中で、120兆円規模の食品産業が貧困層をターゲットにいかに巨額の利益を得ているかを指摘している。加工食品のマーケティングは、肥満と栄養失調が深刻な問題である貧困国民の嗜好を研究し、彼らが好む有名人をCMに使うなどしてピンポイントで狙い撃ちするという。貧しい国民ほど安価で手にいるジャンク・フードや加工食品に依存してゆくからだ。経済的弱者がそれらの産業を潤わせるアメリカで、「貧困」と「肥満」は同義語になりつつある。(『ルポ 貧困大国アメリカ』pp.30-31) 

 

 食生活の乱れを自己責任と言ってしまうのは簡単だ。だが、本当にそう言い切れるのだろうか?

 安価で低カロリーなジャンクフードに頼るしかない人々や、貧困層を狙い撃ちにするビジネスが存在する。貧困層の中には、健康への無知や意志の弱さなどではなく、環境によってジャンクフードへと走らされている者も多いのだ。

 

スーパーサイズ・ミー [DVD]

スーパーサイズ・ミー [DVD]

 

 

 

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

 

 

 

『トゥルーマン・ショー』感想。もしも自分の人生がTV番組だと気づいたら。あなたはこの世界を捨てる?

 

自分の人生が"TV番組のショー"である男の物語

  トゥルーマンは保険会社に勤める平凡なセールスマン。ただ、特別な点が一つある。それは、彼の人生がTVの"ショー"として全世界に公開されていることだ。

 トゥルーマン本人は、自分が"ショー"に出ていることなど気づいてないし、ましてや自分の住んでいる世界が離島に作られたセットで、周りの人間が全員キャストであるなどということは知るよしもない。彼の人生は"監督"の作る"物語"に過ぎず、消費されるために存在している。そんななんともメタフィクショナルな映画である。

 しかし、トゥルーマンはある日世界の違和感に気づく。周りの人間がひたすら同じところをグルグル回っていたり、番組スタッフの無線を偶然にも傍受してしまったりといったことが続いたのだ。そして、自分の住む世界に不信感を抱いたトゥルーマンは、この"セット"からの脱出を試みる……。これが本作品の簡単なあらすじである。

 

 この映画はさまざまな見方が出来る。人間の人生すら消費の対象としてしまう資本主義社会の姿を皮肉っている作品とも、"監督"であり"神"であり"父"であるクリストフから"息子"トゥルーマンへの愛情を描いた作品とも見ることが出来る。

 その中で、見ていて一番関心を引かれた部分は、この映画はディストピア作品と見ることができるのではないかという点である。

 

ディストピア作品としての『トゥルーマン・ショー

 厳密に言うと、この映画をディストピア作品に分類することは難しいかもしれない。通常、ディストピア小説などはディストピア化した社会をテーマにしている。しかし、この作品ではあくまで監視されているのはトゥルーマンただ一人。その点で言うと、『トゥルーマン・ショー』をディストピア映画と分類するのには無理があるかもしれない。

 ただ、それでもディストピアという言葉を用いたのは、"快適な作られた世界"か"自由だが保護されない世界"かという選択がこの作品の根底にあると感じたからだ

 トゥルーマンが生きるセットの世界は、"理想的な平凡な人生"を彼に送らせてくれる。家族や友達に恵まれ、ほどほどに仕事が忙しく、時にはラブロマンスも……。何不自由なく、安全・安心な世界である。

 「人一人の人生をショーとすることに罪悪感を感じないのか」と視聴者から問い詰められ、"監督"クリストフはこう答える。現実の世界は"病んで"おり、彼には理想的な生活を与えていると。そして、トゥルーマンがこの作られた世界に不満を覚えるなら、外の世界に向かって出ていくはずだ、その時は我々は止めることをしない、そう続けた。クリストフは、トゥルーマンが快適なセットの世界を捨て、未知なる外の世界を選ぶことなどありえないと考えていた。

 しかし、トゥルーマンの行動はクリストフの予想を裏切った。彼は"快適な作られた世界"か"自由だが保護されない世界"かという選択のはざまに立たされた。外に出るには幼い頃にトラウマを抱えた海を越えねばならない。海上では"神"であるクリストフによる大嵐が吹き荒れている。この世界を出たところで、そこに何があるは全くわからない。それでも外の世界へ行くんだ。トゥルーマンはそう決断した。

 このトゥルーマンの行動を見て、最近読んだあるシーンが想起された。それは『進撃の巨人』におけるシーンである。

進撃の巨人』に見る"自由への意志"と"人間の本性"

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

 

 

 『進撃の巨人』は、人を喰らう巨人に支配された世界とそこに住む人々を描いた作品である。人々は巨人の侵攻を食い止めるため、巨大な壁を造りその中に暮らしていた。人々は壁外に出られない代わりに、内地での平和を手に入れたのだ。

 しかし、その平和を"家畜の安寧"だと切って捨てた少年がいた。それが主人公エレンである。エレンは外の世界が危険だと知りつつも、探検したいという夢を持っていた。

f:id:bookandwrite:20151210023123j:plain

f:id:bookandwrite:20151210023135j:plain

 エレンは内地の平和を"家畜の安寧"だと切って捨てる。自分は人間なんだ。人間だからこそ、外の世界を自由に旅したいんだ。こうしたエレンの思いは作品を通して一貫している。

 エレンは"人間"と"家畜"という言葉をよく使う。そこに見えるのは、"人間だからこそ、自由を求めるんだ"という、"人間らしさ"の希求である。自由を獲得することで、ヒトは人間になれる。エレンの態度からは、"自由への意志"こそが人間の本性(ほんせい)であるという強い信念が覗える。この"自由への意志と人間の本性"というテーマは『トゥルーマン・ショー』と共通する部分である。

 

※以下、ラストシーンのネタバレあり

 

究極の決断―"作られた快適な世界"か"自由で危険な世界"か

 映画のラストシーン。船を漕いで"世界の果て"へとたどり着いたトゥルーマンは、セットに響くクリストフの声と対話する。そして、そこで自分の世界が創られたものだと告げられたトゥルーマンに、クリストフはこう続ける。

 「外の世界より真実があるのは――私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘。まやかし。だが君の世界に――危険はない」

 外へと繋がる扉を前にし、トゥルーマンは葛藤する。本当に自分は外へ出ていくべきなのかと。そんな彼にクリストフは「君は怖いから外へ出ていけないんだ」と投げかける。"作られた快適な世界"か"自由で危険な世界"か。クリストフはトゥルーマンが前者を選ぶことを信じていた(あるいは、信じたがっていた)。

 しかし、トゥルーマンは外の世界を選んだトゥルーマンの決断における示唆的な台詞がある。それは、「私は君のすべてを知っている」と語るクリストフに対して言い返した、"Never had camera in my head!(頭の中にカメラはない!)"という言葉である。

 クリストフ(Christophe≒Christ)は"トゥルーマン・ショー"の生みの親であり、トゥルーマンにとっての創造主である。彼の親も友人も仕事も物語も全てはクリストフが創ったものだった。彼は全てを支配していた。

 だが、彼にも支配できない領域があった。それがトゥルーマンの"自由への意志"である。彼の脳内にカメラを置くことやキャストを配置することはクリストフにもできなかったのだ。

 "Is nothing real?(全ては作り物だったのか?"

    "You...are real.(君は本物だ)"

 クリストフ自体、トゥルーマンだけは作り物でないことを認めていた。トゥルーマンは、彼の意志を発揮できる余地があるからこそ人間であったのだ。彼の意志、それだけがまがい物だらけの世界の中で、たった一つの"本物"だった。そうしてトゥルーマンは神に庇護された世界を離れ、クリストフによって作られた"Truman"から"True man(本当の人間) "への道を歩み始めたのであった。

 快適な世界から決別したトゥルーマンの"自由への意志"。その中に我々は"人間らしさ"というものを見出すことが出来る。

 

 

 

トゥルーマン・ショー [Blu-ray]

トゥルーマン・ショー [Blu-ray]

 

 

  

『僕たちは世界を変えることができない。』感想。「意識高い系(笑)」と揶揄する人はその葛藤を知らない

 

 医大生の甲太は受験勉強をして大学に入ったものの平凡な日常に疑問を抱いていた。そんなある日「百五十万円寄付してもらえればカンボジアに小学校が建つ」というパンフレットを偶然見かける。これだ!と感じた甲太は、勢いで仲間を募り、クラブイベントを企画して、寄付金の捻出をはかろうと奔走する。同時に、カンボジアにも出向き、地雷除去、ゴミ山で暮らす家族、売春宿で働く少女やエイズ問題などの過酷な現実に触れ、自分のダメさ加減と正対することになり…。決してきれい事だけではない、一歩踏み出す勇気を与えてくれるノンフィクション。(書籍版の説明をAmazonより引用)

 

(※ネタバレあり)

意識高い系青春映画?

主人公で医大生の甲太は、郵便局であるパンフレットを目にする。そこには「150万円でカンボジアに学校を建てよう」というものであった。ぼんやりとした日常に味気なさを感じていた甲太は、「これだ!」と思い立ち仲間を集めて寄付金集めに乗り出す。

f:id:bookandwrite:20150604100205p:plain

サークルの結成、イベントによる資金調達、企業を訪問してのスポンサー獲得と、苦労しながらもエネルギッシュに前へ進んでいく姿が序盤では描かれている。ここまで観た時の正直な感想は、「あぁ、新しい属性での青春映画か」というものだった。

青春映画というジャンルがある。そのパターンは、

パッとしない日常を送っていた主人公が何かに目覚める→仲間を集める→若者らしいあれやこれやがありながら最後は成功する

というものである。大林宣彦監督の『青春デンデケデケデケ』なんかはその典型だし、有名なところだと『ウォーターボーイズ』もそうだ。さわやかな話の流れで鑑賞後の後味が良いのがその特徴だ。

この青春映画でポイントになるのが「青春と何を掛けあわせるか」、である。先の例だと、前者は青春×バンド、後者は青春×シンクロだ。そのため、この映画は青春×意識高い系なんだな、とそう思った。通り一遍の苦難だけあって、たいした葛藤もないまま終わるんだろうな、と。

しかし、その予想を大きく裏切る展開になっていく

目を覆いたくなるほどのドキュメンタリー

冒頭のあらすじを読んだ時、こんな疑問がわかなかっただろうか。

「『なにかしたい』からボランティアなんて不純」「結局自分たちがいいことしたと浸りたいだけ」「学校建てても先生が足りてないんじゃいの?」「日本にも困っている人はいるのに、どうして行ったこともないカンボジア?」。

視聴者は青春映画らしいテンボの良い展開を楽しみながらも、どうしてももやもやしたものを心に抱える。上に書いたような言葉が心に浮かぶ。言うならば、彼らは深刻な問題に関わっているのに切実さが足りないのだ。

しかし、ある出来事をきっかけに映画は急転換を始める。これまで見ないでいた欺瞞と直面することになるのだ。

カンボジアに学校建てるのに、カンボジアに行ったことないの?」。この一言をきっかけに、主人公ら四人はカンボジアへ旅立つ。初めは旅行を楽しんでいた四人だったが、次第にカンボジアの過酷な現状を知ることになる。

その描写が強烈。地雷原に住む子ども、エイズ病棟で死を待つしかない少女、ボルボト政権時の虐殺の記録......まるでドキュメンタリーを見ているかのような感覚に陥る。

特に衝撃的なのが、このシーン。この木が何の木かわかるだろうか?

f:id:bookandwrite:20150604100158p:plain

この木は、ポルポト政権時に憲兵が子どもを叩きつけて殺すために使われた木だと言う。

f:id:bookandwrite:20150604100208p:plain

木には今でもその生々しい血の跡が残っている。そして、地面を少し掘れば人骨があちこちに埋まっている。こうした苛烈さ、悲惨さが淡々と語られていく。前向きなエネルギーに満ち満ちていた序盤とは対照的だ。

現地に赴いて打ちのめされた四人。こんなこと、自分の手に負える問題ではない。生半可な気持ちで手を出すべきでなかった。そうした葛藤を抱える中、追い打ちをかけるような事件が起きる。それは、スポンサー企業の汚職発覚である。

「自己満じゃないの?」

スポンサー企業の汚職が発覚し、協賛を受けていた彼らのサークルは世間を敵に回した。「カンボジアの子どもたちのため」という大義名分を持ち、胸を張って活動できたはずが、「汚い奴らの仲間」として後ろ指を指されるようになるのである。ネットでの誹謗中傷、募金箱へのいたずらなど、無数の悪意が彼らを襲う。

外から攻撃された時に、団結して立ち向かおうとなるのは稀だ。たいていは内ゲバに向かう。「何かちょっと良いことをしたかった」「就職に有利そう」と、そうした思いで集まっていた人々は、甲太ら四人を糾弾する。「そもそもなんでカンボジア?」「もっと日本でやれることあるんじゃないの?」「結局自己満じゃないの?」。サークルはバラバラになり、無力感に苛まれる四人。はたして、僕らに何ができるのか。その問いが突きつけられる。

僕たちは世界を変えることができない。だけど......

世界を変えることなどできない。そう痛感して諦めかけていた四人を立ち直らせたのは、カンボジアでの記憶だった。自分を待っている子どもがいる。こんな自分でも期待してくれている人がいる。人は「誰か」のために身を削り骨を折ることはできない。具体的な「誰」のためにこそ苦労に立ち迎える。この子を救いたい。その想いが再び彼らに火をつけた。「カンボジアに学校を建てたい」という言葉は、この時初めて血が通うこととなった。

カンボジアに学校を建てた後に、甲太が出した結論は、世界を変えることができないだった。「僕たちがどんなにあがいても世界はびくともしません。きっと何も変わりません。愛とかボランティアとか、正直僕にはわかりません」

f:id:bookandwrite:20150604102523p:plain

だが、そのあとに「だけど......」と続く。「誰かのために何かをする喜びは、自分のために何かをする喜びを上回る時があるんじゃないかと思うんです」。世界を変えられるか変えられないか。1か0かで考えるとどうしても尻込みしてしまう。人一人が立ち向かうにはあまりにも世界は大きすぎる。けれど、動く理由にそんな結果主義的な計算は必要ない大切なのは、気概のみ自己欺瞞に気づき、無力さに悩み、「それでもなお」と突き進む姿が強烈に心を揺さぶってくる

あえてラストシーンのセリフを引用までしたのは、それくらいのネタバレでこの作品の感動が薄れることは全くないから

 

現在、huluにて配信中